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大炊御門家
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}菱に片喰(ひしにかたばみ)[1]
本姓藤原北家花山院流
家祖藤原経実
種別公家(清華家)
華族(侯爵)
出身地山城国平安京
主な根拠地山城国平安京
東京市豊島区池袋
著名な人物藤原経宗
大炊御門頼国
支流、分家鷹司家
大炊御門家(おおいのみかどけ)は、藤原北家師実流[1]の公家・華族だった家。公家としての家格は清華家、華族としての家格は侯爵家[2]。 平安時代後期の摂政関白藤原師実の三男経実(1068年(治暦4年) - 1131年(天承元年))を祖として創立された。経実は権大納言どまりであったが、娘の懿子は後白河天皇の女御となり、二条天皇の国母となった[3]。 経実の子経宗(1119年(元永2年) - 1189年(文治5年))は平治の乱で当初藤原信頼・源義朝方に付きながら寝返って平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。二条天皇が崩じたのちには後白河法皇に接近し、死去する直前まで左大臣の地位にあって京都貴族社会の長老として後白河院政を支えた[4]。 経実・経宗以後この家流は清華家の一つ大炊御門家となる[4]。大炊御門の家名は経宗の屋敷である大炊御門富小路第に因む[3]。 経宗の子頼実(1155年(久寿2年) - 1225年(嘉禄元年))は後鳥羽上皇の側近の女房藤原兼子(卿二位)と結婚したことで娘麗子(陰明門院)を土御門天皇の中宮にし、また後鳥羽上皇の後見という立場を得たことで権勢をふるった。二度に渡って太政大臣を務めている[5]。
歴史
7代当主大炊御門信嗣(1236年-1311年)も太政大臣に昇っている[6]。信嗣は『信嗣公記』の著者でもある[7]。他に大炊御門信宗(1391-1468)も死後に太政大臣を追贈された。信宗の猶子である信子(右馬助藤原孝長女)が後花園天皇の後宮に入り、後土御門天皇の国母となったのが影響している[7]。
1542年(天文11年)4月に16代当主の従一位前右大臣大炊御門経名が後嗣のないまま出家したことで一時中絶したが、同族の権大納言中山孝親の次男経頼が養子に入って家を継承した[7]。経頼の嫡男頼国は猪熊事件に連座して勅勘を被って硫黄島に流罪になったため、弟の経孝が大炊御門家を継いでいる[7]。
江戸時代の家禄は400石だった[8][注釈 1]。江戸期の屋敷は西殿町北側にあった[8]。家臣に諸大夫として上田家、橋本家、山本家、榊原家、侍に一見家、岩崎家があった[8]。
明治維新を迎えて東京に移住。当初は壬生家、甘露寺家、醍醐家などと共に新宿御苑内に各屋敷を構えた[9]。その後、華族に列し、1884年(明治17年)7月7日に華族令の施行に伴い華族が五爵制になると幾麿(いくまろ)が旧清華家として侯爵に叙された[2]。大炊御門侯爵家の邸宅は昭和前期には東京市豊島区池袋にあった[10]。
系譜
実線は実子、点線(縦)は養子。