大澤 壽人
基本情報
出生名大澤 壽人(おおさわ ひさと)
生誕 (1906-08-01) 1906年8月1日[1]
(通説では1907年生とされていた[2])
出身地 日本 兵庫県神戸市
死没 (1953-10-28) 1953年10月28日(47歳没)
日本 兵庫県[3]
学歴 ボストン大学音楽学部 卒業
ニューイングランド音楽院 修了
エコールノルマル音楽院 修了
ジャンルクラシック、映画音楽
職業作曲家、指揮者
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽
大澤 壽人(大沢 寿人、おおさわ ひさと、1906年8月1日 - 1953年10月28日)は、日本の昭和時代前期に活動した作曲家、指揮者。兵庫県神戸市出身。 愛媛県出身の父・大澤壽太郎(神戸製鋼所の技術者)と母・トミの間に二男四女の長男として神戸に生まれ、母がクリスチャンであったので幼少から兄妹と共に教会学校へ通い、賛美歌やオルガンに親しんだ[4]。こうして、少年のころより独学ないし教会に通う外国人、アレクサンドル・ルーチン[5]とペドロ・ビリャベルデ[6]から音楽を学んだ[7]。 1930年(昭和5年)、関西学院高等商業学部卒業後すぐにアメリカに渡り、ボストン大学およびニューイングランド音楽院に入学、ハインリヒ・ゲプハルト
生涯
1934年(昭和9年)、フランスに渡ってエコールノルマル音楽院に入学し、ポール・デュカスやナディア・ブーランジェに師事する[12]。交響曲第2番やピアノ協奏曲第2番などを発表し、様々な音楽家から高い評価を得た。1936年(昭和11年)に日本へ帰国し、世界の最先端の音楽を学んだ作曲家・指揮者として活躍する。
戦後はボストン・ポップス・オーケストラなどに範をとった後、自らセミ・クラシックの楽団(大阪・ラジオシンフォネット)を組織し、ラジオを通じて活発な啓蒙的音楽活動を行った。その傍らで神戸女学院大学音楽科で教鞭を執ったり映画や宝塚歌劇団などへの音楽の提供など精力的な活動を行い、1951年(昭和26年)に開局した朝日放送(ABC)の専属指揮者に就任する[13]。ABCラジオ専属時代は毎週締め切りに追われ、多忙な日々を過ごしたが1953年(昭和28年)10月28日に脳溢血のため47歳で急死。父親の郷里である愛媛県新居浜市に墓がある。
生年については長らく「1907年(明治40年)生」とされていたが[2]、後年の研究によって正しくは「1906年(明治39年)生」であることが戸籍謄本・小学校卒業証書・関西学院学籍簿と卒業証書・パスポート・技藝者許可申請書により確認された[1][13]。 ボストン交響楽団で日本人として初めて指揮した。当時の日本クラシック音楽家としては画期的な作品を多数残したが、没後50年近くたって片山杜秀と藤本賢市 1936年帰国後、留学期と同様の作風による楽曲をなかなか作ることが出来なかった大澤はラジオ、映画、宝塚歌劇団などの音楽、レビューを担当する仕事に携わることになる。しかしながら、「サクソフォン協奏曲」や「トランペット協奏曲」「ジャズ変奏曲」など大澤の好みである濃厚なジャズの響きが特徴の作品を書いている。つまり、大澤は時代の環境に合う作曲活動を展開していきながら、かつ自分の欲求を搾り出していったことになる。ラジオの面では歌曲集「ABCホームソング」を書いた。 本分である器楽作品の面で「交響曲第4番」を作曲しようと構想していたが、楽譜の表紙のみが遺されているのみで譜面に音符が書かれることはなかった。 大澤の作品には「さくら」というキーワードの作品が多少みられる。代表的な作品としては、「交響曲第3番」、ソプラノと管弦楽のための「さくらに寄す」、ピアノと管弦楽のための「さくら幻想曲」がある。これらの作品では、日本古謡「さくら」が用いられ、モチーフとして扱われたり、全体を占める主題として扱われたり、変奏されたりする。
業績
作風
大澤と「さくら」
代表作
管弦楽曲
小交響曲 - 2つの管楽器と弦楽合奏のための(1932年)[14]
新英州(1933年)
3つの田園交響楽章 Sons of Earth(1934年)
大空の下で
礼拝者と聖なる踊り
収穫の祭り 歓喜の時
交響曲第1番 (1934年)[15]
朝の詩
交響楽組曲『影の断片 Les pieces des ombres』(未完)
交響変奏曲『考える人に Le penseur』
交響曲第2番(1935年)
交響組曲『路地よりの断章』(1935年)[16]