大潮憲司
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大潮 憲司

9代式守秀五郎(2010年1月場所)
基礎情報
四股名波多野 → 大潮 憲司
本名波多野 兼二
生年月日 (1948-01-04) 1948年1月4日
没年月日 (2024-05-25) 2024年5月25日(76歳没)
出身福岡県八幡市(現在の同県北九州市八幡東区
身長186cm
体重143kg
BMI41.33
所属部屋時津風部屋
得意技左四つ、寄り、突き
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴964勝927敗47休(156場所)
幕内戦歴335勝413敗17休(51場所)
優勝十両優勝3回
敢闘賞1回
技能賞1回
データ
初土俵1962年1月場所
入幕1971年9月場所
引退1988年1月場所
引退後式秀部屋の師匠など、後進の力士達の指導
備考
金星3個(輪島1個、北の湖2個)
2013年1月3日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

大潮 憲司(おおしお けんじ、1948年(昭和23年)1月4日 - 2024年令和6年)5月25日[1])は、福岡県八幡市(現・同県北九州市八幡東区)出身で時津風部屋に所属した大相撲力士。本名は波多野 兼二(はたの けんじ)。最高位は東小結1978年1月場所)。現役当時の体格は186cm、143kg。得意手は左四つ、寄り、突き[2]

引退後は年寄式守秀五郎(通称・式秀)を襲名し、1992年(平成4年)から日本相撲協会を停年(定年。以下同)退職する2013年(平成25年)1月まで式秀部屋の師匠を務めた[2]
来歴・人物

幼いころに両親が離婚し下宿屋で貧乏しながら育ち、いわゆる「おばあちゃん子」であった。中学2年生で身長182.5cm、体重75kgと学校でも頭一つ抜けた体格であった。当時はバスケットボールで活躍していたが、たまたま出場した相撲大会で優勝して、これがきっかけとなって11代粂川(元前頭1・双ッ龍)の勧誘を受けた。しかし、当初は映画『土俵の鬼 若ノ花物語』(1956年公開)を見て、相撲界は厳しい世界だと感じていたので「絶対に嫌だ」「冗談じゃない」と拒絶していた。また女の子にもてたいので飛行機の操縦士になるという夢を持っていた。それでも、祖母にいい家を建ててあげたいという思いが、相撲界に入ることを決意させた。12代時津風(元横綱・双葉山)の部屋に正座して入り、挨拶を行った際、かなり緊張していたため2018年の時点では詳しくは覚えていないという。ただ、当時の12代時津風の身辺の世話は信頼している床山が行っており、力士の新弟子が付くことはなかったといい、それだけ12代時津風は近寄りがたい存在であったという。12代時津風は弟子にとって偉大な存在であり、12代時津風がスリッパの音や玄関を開ける音を鳴らしただけで周囲が静まり返ったという[3]

そうして時津風部屋へ入門し、1962年1月場所で初土俵を踏んだ。同期の初土俵組には後の前頭・若吉葉らがいる。新弟子時代の時津風部屋には部屋に70人から80人が所属しており、稽古の時間を確保するために午前4時から稽古場に下りていたという。それでも、入門当初は中学在学中であったため、中学在籍当時は学校を卒業した普通の力士達とは事情が異なっていた。兄弟子達よりも早く稽古を切り上げ、台所で女中に朝食を食べさせてもらい、上からふたをしてぎゅうぎゅうに押しつぶして汁がカバンの中からこぼれたドカベンを昼食として持たされ、墨田区立両国中学校に通った。だが、教員は事情が分かっていたため早弁してお腹いっぱいになると、居眠りした波多野を大目に見て、居眠りから起こしはしなかった。旭國は両国中での同級生であり、相撲が好きな旭國は学校の昼休み中であっても「稽古しよう。廊下でもいいからやろう」と言ってきたが、稽古嫌いな波多野にとってこれは「勘弁してくれ」という感じであった。

そんな波多野は、自身が付き人を務めている北葉山の指導を受けて相撲の素養を磨き、脇が開いてしまうのでどうしたらいいかと助言を求めた時は竹ぼうきを挟んで脇を締めて打つ、鉄砲のやり方を北葉山は教えてくれ、さらに「ヒジで体の横をこするようにして、小指側から当てていくんだ」「すり足も、足の親指に力を入れてやると自然にヒザも曲がるよ」と、助言した。波多野は北葉山の頭を洗う時も、「毛先から根本へ向かって、ワキを締めて洗っていくんだ」と、北葉山の教えを徹底した。波多野は北葉山を「稽古量もすごかったし、研究熱心でしたよね」と振り返っており、幕内土俵入りでも北葉山はその日の土俵の土の感触を足の裏で感じながらすり足で歩いたといい、波多野もこれを参考にした。波多野はこれを知っていたおかげなのか、現役中勇み足で星を拾ったことも何度か経験した。波多野が若いころは、12代時津風は午前10時ごろに稽古場に下り、出稽古によく訪れた柏戸、北葉山、豊山で行われた三番稽古で指導を行っていた。12代時津風は弟子達にとって神のような存在なのでこの頃になると取的に胸を出すことは基本的に無かったが、巡業で兄弟子がいない時に「あんちゃん、こい」と言われて胸を借りたことが2、3度あった。下の力士にとっては畏れ多い存在なので、波多野にとっても「触らせていただいた」という感じの夢のような体験であった。12代時津風を波多野は言葉で何かを教える雄弁な人物ではないとして「てっぽうをやるにしても、師匠は左右交互に打つのではなく、片方の腕は上に掲げたまま、一方の腕だけで打ち続けるんです。そうすれば自然にワキが締まるし、手と足が連動して体全体を使って打つことができる。当時は、ただ呆然と見ていただけですが、後々になって、それが分かってきたんです」と「言葉で教えてもらうのではなく、自分自身で学びなさい」という12代時津風の考え方がそこにあったと述べている[3]

当初から道場のホープと呼ばれながら出世は遅く、何度も幕下上位の壁に阻まれていた。気が優しすぎるのが力士としての欠点であり、中学時代に相撲大会で土俵の横の水たまりを指さして「先生、ここに投げ飛ばしたら濡れるじゃないの。止めようよ」と相撲の先生に中止を申し出たというエピソードが存在する。それでも、当時の巡業の呼び物である「幕下5人抜き」の時津風部屋代表に選ばれた際は、兄弟子の北葉山や時葉山らに「オイ、負けたらどうなるか、分かってるだろうな」と半死半生のしごきを仄めかす言葉を受けたため、必死に相撲を取った[4]

波多野の故郷、北九州市の祖母も下位時代の波多野が勝つと近所の人に一緒に喜んでもらえたが、負けると周囲が気を遣って祖母を避けたという。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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