大溝藩(おおみぞはん)は、近江国高島郡の大溝陣屋(現在の滋賀県高島市勝野)に藩庁を置いた藩[1]。1619年に外様大名の分部氏が2万石で入封し、1871年に廃藩置県に先立って自ら廃藩するまで、250年あまり存続した。 大溝は高島平野
歴史.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}大津水口矢島小川大溝 関連地図(滋賀県)[注釈 1]
前史
大溝
分部氏は伊勢国安濃郡分部村(現在の三重県津市分部)を発祥地とする一族で、伊勢北部の有力国衆であった長野氏に仕えていた。分部光嘉は長野家を継いだ織田信包(織田信長の弟)に仕え、伊勢上野城(現在の津市河芸町上野)の城主として豊臣政権のもとで独立した大名の地位を確立した。光嘉は関ヶ原の戦いに際して東軍に味方し、安濃津城の籠城戦で奮戦したことにより、戦後に加増を受けて伊勢上野藩2万石の近世大名となった[5]。光嘉の跡は養子の分部光信(光嘉の外孫)が継ぎ、大坂の陣において武功を立てている[6]。
江戸時代前期初代藩主・分部光信
元和5年8月27日(1619年10月4日)、分部光信(光嘉の養子)は伊勢国内2万石の領地を近江国高島郡・野洲郡内に移され、大溝を居所とした。これにより大溝藩が立藩した。分部家の近江への移封を「大坂の陣の恩賞」[5]とする説明もあるが、紀州藩の成立により伊勢国内の領地が再編された余波ともされる[注釈 2][7][8]。
光信は、大溝城跡の一角に大溝陣屋を築いて藩政の拠点とするとともに、津田信澄が整備した城下町の町割りをもととして近世的城下町を整備した[4](#陣屋と陣屋町参照)。また、大溝湊を拡張した[2]。
寛永20年(1643年)に光信が死去して子の分部嘉治が跡を継いだが、明暦4年(1658年)に妻(備中松山藩主池田長常の娘)の叔父に当たる池田長重
と刃傷沙汰となり死亡するという事件が発生する。子の分部嘉高が幼少で家督を継いだが、寛文2年(1662年)には寛文近江・若狭地震、寛文6年(1666年)には洪水に見舞われた。嘉高は寛文7年(1667年)に嗣子無く没した。第4代藩主として、嘉高の母の縁戚に当たる分部信政(旗本池田長信の子。池田長常の孫)が養嗣子として迎えられた。寛文9年(1669年)5月には大洪水により高島郡一帯に被害が出たが、大溝藩領でも1万石の損毛を受け、幕府の御蔵米3000石を拝借して切り抜けている[9]。延宝4年(1676年)5月にも大洪水に見舞われて1万3000石が徴収できず、それによって参勤交代の免除を幕府に願い出ているほどの財政破綻状態に陥っている[9]。 度重なる災害に加え、大坂加番などを課せられたことで、藩財政は江戸時代中期頃になると火の車となった。6代藩主分部光命の時代には、延享4年(1747年)と寛延2年(1749年)の2度にわたり大溝城下が大火に見舞われた。
江戸時代中・後期