大湊_(伊勢市)
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大湊町
町丁
大湊(1983年)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
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.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度31分37.3秒 東経136度44分5.9秒 / 北緯34.527028度 東経136.734972度 / 34.527028; 136.734972
日本
都道府県 三重県
市町村 伊勢市
地区大湊地区
面積[1]
 ? 合計2.269836122 km2
人口(2020年4月30日時点)[2]
 ? 合計2,953人
 ? 密度1,300人/km2
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号516-0001[3]
市外局番0596(伊勢MA[4]
ナンバープレート伊勢志摩[5]

大湊(おおみなと)は、三重県伊勢市にある港町宮川河口付近の三角州にあり、中世から近世伊勢湾における商業海運の中心地であった。住所表記上の町名は大湊町(おおみなとちょう)。郵便番号は516-0001[3]。2020年(令和2年)4月30日時点の人口は1,371世帯2,953人[2]

1943年(昭和18年)に宇治山田市に編入され、1955年(昭和30年)に市名改称により伊勢市となった。
概要・歴史

伊勢神宮神郡であった伊勢国度会郡に属しており、近くに神宮直属の塩田(大塩屋御園)が存在したことから鎌倉時代以前から開けて、東海道東国各地にあった荘園からの年貢や各地から伊勢神宮への奉納品、生活物資の集積点として、また東国から神宮への参拝客の海の玄関口としてなど、神宮と東国を結ぶ中継地また伊勢における物流拠点として栄えた。

南北朝時代には伊勢神宮と南朝及び北畠氏との連携が強化され、1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)には、義良親王(後の後村上天皇)を奉じた北畠親房結城宗広らが大湊から東国へ向かって船出して途中で難破し、親王らは伊勢国に引き返したが、親房の船だけが常陸国に漂着している。

室町時代には北畠氏の支配下に入るが、上納金と引き換えに24名の会合衆による自治が認められるようになった。1498年(明応7年)に明応地震による津波で1000軒の家屋が破壊されて5000人もの死者を出したにもかかわらず、11年後に地元の国人愛洲氏(庶流の愛洲久忠が著名)との諍(イサカ)いがあった際に100の献金を行って和解している。1565年(永禄8年)の冬には1ヶ月の集計で船の入港が119隻、そこから納められた入港税が34貫870文(当時の米価は一石あたり600文(60疋/0.6貫)前後とされている)であったという。大湊は北畠氏のみならず、尾張織田氏三河徳川氏駿河今川氏相模北条氏など有力戦国大名とも強く結びついていた。このように当時の大湊は博多などと並ぶ日本の代表的な商業都市の1つであった。

安土桃山時代に織田信長が北畠具教を討ち、子の織田信雄に北畠氏を継がせると、伊勢湾は事実上織田氏の支配下に置かれるようになる。大湊側も抵抗を続けるものの、最終的に織田政権に屈して九鬼嘉隆の影響下に置かれた。

江戸時代には廻船問屋が自治を司り、廻船業者を対象とした船宿も発達し、港町としての繁栄を続けたが、河口の土砂の堆積により港湾機能が衰え、鳥羽の台頭もあり、次第に衰退していくことになる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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