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大浦 慶(おおうら けい、文政11年6月19日(1828年7月30日) - 明治17年(1884年)4月13日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての女性商人。日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ・道永栄(肥後天草出身)[1]と並ぶ長崎三女傑のひとり。 文政11年(1828年)に長崎油屋町[2]で油商・大浦太平次と佐恵の娘として生まれる。 大浦家は、賀古市郎右衛門の次男・大五郎(1818年 - 1837年)が婿養子として大浦家に入るが、慶が9歳のときに死去。大五郎の死後、大浦家の財政は傾き、それに追い打ちをかけるように、天保14年10月24日(1843年12月15日)の夜に出来鍛冶屋町より出火し、今籠町・今鍛冶屋町・油屋町・今石灰町・新石灰町・高野平郷など家屋526戸が焼ける大火が発生し、大浦家は大損害を受けた。この時、慶は大浦家再興に尽くそうとした。 翌1844年、蘭学を学びに長崎にきていた天草の庄屋の息子の幸次郎(秀三郎とも)を婿養子に迎える。しかし、慶はこの幸次郎が気に入らず、祝言の翌日に追い出した。以後、死ぬまで独身を貫きとおすこととなった。20歳のときに上海に密航したという説もある。 嘉永6年(1853年)に通詞・品川藤十郎と協力して出島にてドイツ人・テキストル(Carl Julius Textor)に嬉野茶を託し、イギリス、アメリカ、アラビアの3ヶ国へ茶を送ってもらうことにした。この時、9斤の茶葉を三階級に等分し、各階級1斤ずつ各国に割り当てた。そして同年9月、テキストルが出島から出港した。 日本茶輸出貿易に成功した慶は名が知れ渡り、坂本龍馬・大隈重信・松方正義・陸奥宗光らと親交があったとされる。 しかし、1860年代が終わろうとする頃、九州より大きい茶の産地である静岡からの輸出が増えて、茶の輸出業に陰りが見えはじめる。このとき慶は違う商品の貿易も考えていた。
生涯
日本茶貿易
遠山事件が訪れ、イギリスのオールト商会と熊本産煙草15万斤の売買契約したため、慶に保証人になってほしいと頼んできた。遠山は熊本藩から派遣されたように装い、連署人として同藩の福田屋喜五郎
ところが、オールト商会は遠山に手付金3000両を差し出したものの、期限の9月になっても煙草は全く送られてこなかった。そのため慶はオールト商会から手付金を返すように求められ、熊本藩と交渉し遠山家の家禄5ヵ年分に相当する約352両の支払いを受けたが、それが精一杯であった。実は、遠山は輸入反物で失敗し借金を返済するために慶を騙したのであった(遠山事件)。
明治5年(1872年)1月、慶はオールト商会から遠山、福田屋喜五郎と共に長崎県役所に訴えられ、慶も遠山と福田屋を訴えた。7月から8月にかけての判決で、遠山は詐欺罪で懲役10年の刑を受けるが、慶は連判したということで1500両ほどの賠償金を支払うこととなった。負債の3,000両(現在の価値でいえば約3億円ほど)と裁判費用及び賠償金を払うことになり、これで慶の信用も地に堕ち、大浦家は没落した。家財は差し押さえられ、毎日慶の家に取り立てが来ていたという。 明治12年(1879年)6月に元・第18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントが長崎に寄港した際は国賓として、各県令らと共に慶が艦上に上った。その時、艦上にいた国賓で女性は慶だけであった。 翌明治13年(1880年)1月12日に筑前国甘木の商人佐野弥平
晩年