大浦兼武
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家大浦 兼武おおうら かねたけ

生年月日1850年6月15日
嘉永3年5月6日
出生地 日本 薩摩国薩摩郡宮之城郷[1]
没年月日 (1918-09-30) 1918年9月30日(68歳没)
前職武士薩摩藩士)
内務官僚
称号 陸軍中尉
従二位勲一等子爵
配偶者大浦コウ
子女大浦兼一(長男)
親族大浦兼次(孫)
第24・27代 内務大臣
内閣第3次桂内閣第2次大隈内閣
在任期間1912年12月21日 - 1913年2月20日1915年1月7日 - 1915年7月30日
第21・25代 農商務大臣
内閣第2次桂内閣第2次大隈内閣
在任期間1908年7月14日 - 1911年8月30日1914年4月16日 - 1915年1月7日
第14代 逓信大臣
内閣第1次桂内閣
在任期間1903年9月22日 - 1906年1月7日
第12・14代 警視総監
在任期間1898年11月9日 - 1900年10月19日1901年6月2日 - 1903年9月22日
その他の職歴
官選第6代 宮城県知事
(1898年7月28日 - 1898年8月9日
官選第4代 熊本県知事
1896年12月1日 - 1898年7月28日)
官選第4代 山口県知事
1895年3月26日 - 1896年12月1日)
官選第10代 島根県知事
1893年3月21日 - 1895年3月27日
テンプレートを表示

大浦 兼武(おおうら かねたけ、嘉永3年5月6日1850年6月15日) - 大正7年(1918年9月30日)は、明治大正期の日本官僚政治家[2]

島根県知事(第10代)、山口県知事(第4代)、熊本県知事(第4代)、宮城県知事(第6代)、警視総監(第12・14代)、貴族院議員勅選)、逓信大臣第14代)、農商務大臣(第2226代)、内務大臣(第2427代)、大日本武徳会会長を歴任した。
経歴

薩摩藩主島津家分家である宮之城島津家の家臣として生まれる。戊辰戦争では薩摩藩軍に参加し、奥羽方面に出征。

明治維新後は警察官となり、邏卒から累進して明治8年(1875年)、警視庁警部補に昇任。明治10年(1877年)、西南戦争抜刀隊を率いて功績を挙げた。このとき陸軍中尉兼三等小警部となる。

明治15年(1882年)、大阪府警部長(現在の警察本部長)に就任。明治17年(1884年)に起きた松島事件(陸軍兵士と警察官の乱闘事件)に際しては、軍服姿で双方の上官として現場を鎮定し、評価を高めた。明治21年(1888年)、警保局次長に就任。

明治26年(1893年)以降、島根県山口県熊本県宮城県知事を歴任。明治31年(1898年)、警視総監に就任。明治33年(1900年)3月19日、貴族院議員勅選される[3]

明治36年(1903年)、第1次桂内閣逓信大臣として初入閣。その後も第2次桂内閣農商務大臣第3次桂内閣内務大臣第2次大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。立憲同志会の創立にも加わる。

選挙干渉のプロとして「物騒な人物」扱いされていたが[4]、ついに大隈内閣の内相時代に選挙違反の嫌疑で取り調べを受けることになり、そこからかつて第2次桂内閣で農商相だったときに二個師団増設案を通過させるために議員を買収していたことが発覚。これで内相を辞任することになり、政治生命を絶たれることとなった(大浦事件)。

大正4年(1915年)8月3日に貴族院議員を辞職し[5]、翌日に隠居した[6]

大正7年(1918年)9月30日、神奈川県鎌倉市長谷別荘に於いて死去。享年68。墓所は青山霊園(1イ2-25)。

大日本武徳会会長、日英博覧会総裁も務めた。

大浦兼武(1898年

大浦兼武

大日本帝国剣道形制定時の集合写真(1912年

大浦兼武・コウ夫妻の墓

日英博覧会のためにしたためた書。1910年

栄典


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:73 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef