凡例大浦光信
大浦光信像
時代戦国時代
生誕寛正元年(1460年)
死没大永6年10月8日(1526年11月12日[1])
墓所青森県弘前市の長勝寺
主君南部信時
氏族大浦氏
父母父:金沢家信
大浦 光信(おおうら みつのぶ)は、戦国時代の武将。陸奥国種里城主。 延徳3年(1491年)、南部信時は南部久慈氏の一族・南部光信を津軽西浜の種里城(西津軽郡鰺ヶ沢町)に配置し安東氏への押さえとした[6]。文亀2年(1502年)、光信は大浦城を築き養子・大浦盛信に守らせた。 大永6年(1526年)、種里城[6]で死去。享年67(51とも[1])。 死後、盛信によって長勝寺に祭られた。なお、遺言として「死後も西の備えたらん」と述べたため、盛信によって甲冑姿のままで埋葬されたと伝えられている。 実子との説もある大浦政信は、津軽家の公称系図では孫(光信の長女・阿久と津軽に来た近衛尚通の間に生まれた)にあたる。 光信の銅像 (種里城跡、1990年建立)
略歴
脚注^ a b 『青森県史』
^ 南部守行の子である久慈威信
^ 孫とも
^ 盛顕
^ 新庄信春次男?
^ a b 『弘前市史』
参考文献
『弘前市史・通史編2』弘前市、2002年6月28日。
更新日時:2021年12月24日(金)23:34
取得日時:2022/10/12 01:12