大津祭
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天孫神社

天孫神社南(大津駅側)神門
(平成21年(2009年)10月11日撮影)
所在地滋賀県大津市京町3-3-36
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度00分20.6秒 東経135度52分01.6秒 / 北緯35.005722度 東経135.867111度 / 35.005722; 135.867111
主祭神彦火火出見尊他3柱
社格等国史見在社論社・旧県社
創建伝延暦年間(8・9世紀の交)
本殿の様式流造
別名四宮
例祭10月の体育の日の前日の日曜日
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天孫神社(てんそんじんじゃ)は、滋賀県大津市(四宮町)にある神社社格旧県社
祭神

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)

国常立尊(くにのとこたちのみこと)

大己貴尊(おおなむちのみこと)

帯中津日子尊/仲哀天皇(たらしなかつひこのみこと/ちゅうあいてんのう)

以上四柱の主神の他に塩土翁/塩土老翁(しおつちのおじ)も祀っているとされる。


由緒

延暦年間(782年?806年)の創建と伝えられる。はじめ琵琶湖畔にあったが、伊勢屋町(いせやちょう)等を経て、文明年間(1469年?1487年)に現在地に移った。元慶6年(882年)に従五位下の神位を授けられた「近江国海南神」[1]と見られている国史見在社論社である[2]明治維新までは「四宮神社」と称したが、明治初年に現在の社号となった。
末社

天満宮社(てんまんぐうしゃ)

日若宮社(ひわかじんじゃ)

十社合祀

春日神社(かすがじんじゃ)

大神宮社(だいじんぐうしゃ)

八幡神社(はちまんじんじゃ)

八百萬神社(やおよろずじんじゃ)

蛭子神社(えびすじんじゃ)

金山彦神社(かなやまひこじんじゃ)

稲荷神社(いなりじんじゃ)

日吉神社(ひよしじんじゃ)

住吉神社(すみよしじんじゃ)

猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)


福富稲荷神社(ふくとみいなりじんじゃ)

輻輳神社(ふくそうじんじゃ)

他に社務所、舞殿、神楽殿、神輿蔵、手水舎(ちょうずや)などがある。(かつては絵馬殿もあった。)
祭礼(大津祭)本祭・曳山巡行中の曳山。経路内には京阪京津線と併走する箇所も存在する 尚令和以降は京阪が運休している。(平成21年10月11日)撮影。曳山から撒かれる厄除けちまき

例祭は10月の体育の日の前日の日曜日の本祭(曳山巡行)。本祭前日の土曜日の宵宮と併せて大津祭と称される(古くは四宮祭礼、四宮祭と称した)。日吉大社の山王祭、建部大社の祭礼とともに大津三大祭のひとつに数えられる。また、山王祭、長浜曳山祭とともに湖国三大祭のひとつともなっている。かつては10月9日が宵宮(よみや)、10日が本祭(曳山巡行)であったが、2000(平成12)年に「ハッピーマンデー法」により、体育の日が10月10日から10月第2月曜日へ変更になり、これに合わせそ体育の日の々前日の土曜日に宵宮、前日の日曜日に本祭(曳山巡行)が行われるようになった。本祭(曳山巡行)では現在13基の曳山(山車)が市内を巡行し、曳山の上から厄除け粽や手拭いが撒かれる(かつては餅入り粽やお菓子なども撒いていた)。各曳山にはからくり人形が乗せられており、各所で所望(大津祭では「しょうもん」「しょもう」などと発音する。)が披露される。幕末まで曳山は、現在休山中の神楽山を含め14基あった。(後述)

大津祭の起源は、慶長年間(1596年?1615年)に鍛冶屋町の塩売治兵衛(塩屋治兵衛とも)が狸の面をつけて踊ったのが最初とされる。以降治兵衛を屋台に乗せたり、1622(元和8)年より年老いて踊れなくなった治兵衛の代わりに腹鼓を打つ狸のからくりを乗せたり、1635(寛永12)年より屋台に地玉を付け子供に曳かせたりして氏子内を練り歩き、1638(寛永15)年に現在のような三輪の曳山の原型ができる。(当時はまだ祇園祭の舁山のような天井のない屋台だったと思われる。)以降150年ほどかけて狸山を皮切りに14基の曳山が作られていった。

2016年平成28年)3月2日、国の重要無形民俗文化財に指定された。
大津祭の曳山一覧

西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)鍛冶屋町(かじやちょう) 1635(寛永12)年創建。俗に狸山とも呼ばれる。唯一の「くじ取らず」で毎年先頭で巡行する。
能楽の西行桜から考案したもの。所望は、桜の古木の中から桜の精が現れて枝を前に進み立ったり座ったりする。これは西行と問答している様子を表現している。1656(明暦2)年以前は狸の腹鼓のからくりであった。西行桜に替わった時に狸を屋根に乗せ、祭り当日の天気を守護するうになったと云う。創建当初は単に狸山と称していたが、からくりを変えた時から現名称となる。

猩々山(しょうじょうやま)南保町(なんぽちょう) 1637(寛永14)年創建。能楽の猩々から考案したもの。所望は、高風が大甕から酌んだ酒を、猩々が大盃で飲み、扇子で顔を覆うと赤く変面する。猩々が高風に贈った大甕は、酒を酌めども尽きないものだったと云う。

西王母山(せいおうぼざん)丸屋町(まるやちょう) 1656(明暦2)年創建。俗に桃山(ももやま)とも呼ばれる。崑崙山に住むと言われる西王母から考案したもの。所望は、桃の木に大きな桃がなっており、その大桃が二つに割れて桃童子が生まる。その桃童子が枝を前に進み立ったり座ったりする。西王母の伝説に桃太郎の説話を加味したものであろう。

西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)白玉町(しらたまちょう) 1658(万治元)年創建。俗に鯛釣山(たいつりやま)とも呼ばれる。元は塩屋町(しおやまち)所有で、古くから町内で蛭子を出して飾っていたものを、後に曳山に載せるようになったと云う。白玉町は明治7年に隣接する塩屋町と米屋町(こめやまち)が合併してできた町である。所望は、蛭子の前を2匹の鯛が泳いでおり、蛭子がその鯛を釣り上げ、太郎冠者の魚籠に入れる。創建当初は宇治橋姫山(うじはしひめやま)と称した。1685(延宝3)年、現名称となる。

殺生石山(せっしょうせきざん)柳町(やなぎちょう) 1662(寛文2)年創建。俗に玄翁山(げんのうやま)、狐山(きつねやま)とも呼ばれる。能楽の殺生石から考案したもの。所望は、玄翁和尚の法力により殺生石が二つに割れ、玉藻前が顔を扇子で隠すと顔が狐に変わる事で、成仏する様を表している。

湯立山(ゆたてやま)玉屋町(たまやちょう) 1663(寛文3)年創建。俗におちゃんぽ山、どんぶく山とも呼ばれる。天孫神社の湯立ての神事を表現したもので、曳山全体が天孫神社を模したものとなっている。所望は、禰宜が御幣でお祓いをし、市殿が笹で湯を奉り、飛矢が鉦を叩き神楽を奏する。そして湯を表した紙吹雪(通称:オッパ)が撒かれる。これを浴びると無病息災、商売繁盛などのご利益があると云う。湯立山創建以前には孟宗山(もうそうやま)(1626(寛永3)年創建という)を所有していた。孟宗山は湯立山を創建した時に、高島の方へ売ったと云う。

郭巨山(かっきょやま)後在家町・下小唐崎町(ございけちょう・しもこからさきちょう) 1693(元禄6)年創建。俗に釜掘山(かまほりやま)とも呼ばれる。中国二十四孝の一人郭巨から考案したもの。所望は、郭巨が子を埋めようと鍬で穴を掘ると黄金の釜が現れる。隣では妻が子供を抱いてあやしている。創建当初は橋本町(はしもとちょう)が所有していたが、明治期に財政が逼迫し、町内での維持が困難となった為、狸山の老朽化が進んでいた鍛冶屋町を経て現二ヶ町(当初は上小唐崎町を含む三ヶ町と云われる)に譲られた。

孔明祈水山(こうめいきすいざん)中堀町(なかぼりちょう) 1694(元禄7)年創建。略して孔明山とも。蜀の諸葛亮(孔明)から考案したもの。所望は、趙雲が鉾を突き出すと水が涌き上がり、孔明が扇を上げ喜ぶ様子を表現している。創建当初は福聚山(ふくじゅやま)(町内文書によると三福神福裏山(さんぷくじんふくりやま))と称し、釣狐山(つりぎつねやま)、浦島亀釣山(うらしまかめつりやま)を経て、1860(万延元)年、現名称となる。

石橋山(しゃっきょうざん)湊町(みなとちょう) 1705(宝永2)年創建。俗に唐獅子山(からじしやま)とも呼ばれる。謡曲石橋から考案したもの。所望は、岩石の中から唐獅子が出てきて牡丹の花に戯れ遊び、また岩の中に隠れる。かつては長い橋樋を用いて牡丹に獅子が戯れる様子が見られたと云う。現在の所、二体の唐獅子が現存している。創建当初は靭猿山/空穂猿山(うつぼざるやま)と称し、張良山(ちょうりょうやま)を経て、1748(延享5)年、現名称となる。

龍門滝山(りゅうもんたきやま)太間町(たいまちょう) 1717(享保2)年創建。俗に鯉山(こいやま)、鯉滝山(こいたきやま)とも呼ばれる。登竜門の故事から考案したもの。所望は、龍門山の滝を鯉が躍り上がり、滝の中ほどで翼を左右に広げ雲の中に消えてゆくことで龍への変身を表現している。現在の所、四体の鯉が現存している。

源氏山(げんじやま)中京町(なかきょうまち) 1718(享保3)年創建。俗に紫式部山(むらさきしきぶやま)、お姫山(おひめやま)とも呼ばれる。紫式部源氏物語から考案したもの。所望は、紫式部の周りを様々な小人形(汐汲翁娘、船頭、牛車、従者など)や風景(松立木、小屋、釜戸)が現れては消えてゆくことで、紫式部が観月台で月を見ながら構想を練り書をしたためる子を表現している。

神功皇后山(じんぐうこうごうやま)猟師町(りょうしまち) 1749(寛延2)年創建。略して神功山(じんこうやま)とも。神功皇后が鮎を釣り戦勝を占ったという伝説から考案したもの。所望は、皇后が岩に弓で字を書く所作をすると、岩に金色の「三韓之王者」の文字が現れる。終戦直後は鮎を釣る所望であった。


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