大河津分水
[Wikipedia|▼Menu]
冬の越後平野を流れる信濃川と大河津分水(左奥)青色.大河津分水、灰色.信濃川流路

大河津分水(おおこうづぶんすい、大河津分水路)は、新潟県を流れる信濃川分水路である。越後平野中央部で信濃川と分岐後、燕市分水地区)・長岡市寺泊地域)の境界付近を流れ、日本海に至る。新潟市関屋分水とともに信濃川の2つの分水路の一つである。

信濃川の流量を減らし、氾濫や堤防決壊を防ぐために、江戸時代から計画があったが、1907年明治40年)に本格的な工事が始まり[1][2]1922年大正11年)に通水、1931年昭和6年)の補修完了により安定稼働を開始した。

なお、信濃川のうち大河津分水分派点より下流を信濃川下流と称している[3]
概要[ソースを編集]河口付近。流路は幾何学的曲線を描く。

全長は9.1 km(キロメートル)。川幅は分流点付近では約720 m(メートル)あるのに対し、河口付近では約180 mとなっている[4]。通常、川は河口へ向かうほど幅が広くなるが大河津分水では逆となっている。これは、河口付近2 kmが山地となっているため掘削土砂量を減らすこと、及び川幅を狭め河床を急勾配にする事によって流速を早め、洪水時により多くの水を流すように設計したためである。

本川・分水の分派点には双方にを設けている。本川側には大河津洗堰、分水側には大河津可動堰があり、通常時は本川側の洗堰を開き、下流域の用水として毎秒270立方メートルまで流し、それ以上は可動堰から分水路に放流する[4]。分流点より本川下流側が洪水の時には洗堰を閉じ、全水量を分水路から直接日本海に放流する[4]。一方渇水時には可動堰を閉じ、全水量を洗堰から本川へ流す[4]
沿革[ソースを編集]
計画から第1期工事まで[ソースを編集]

越後平野は河川により運ばれた土砂が堆積してできた沖積平野であるため、川の水面よりも低い土地がかなりの面積を占め、ひとたび洪水が発生すると水がすぐに溢れ、しかも行き場のない水が容易に引かないという状態であった。古くは16世紀末から信濃川の計画的な工事が行われてきたが(信濃川#為政者達の治水を参照)、その後も氾濫が度々発生し、被害が続いていた。

このような状況を見かね、享保年間に三島郡寺泊(現・長岡市)の豪商、本間屋数右衛門らが江戸幕府に対し分水建設を請願したが、許可されなかった[5]。1842年(天保13年)には幕府も測量調査を実施したが[6]、莫大な費用及び周辺集落の反対により起工には至らなかった。この間にもたびたび大洪水が発生し、明治維新後の1869年明治2年)に白根の庄屋、田沢与左衛門らが分水工事を越後府に請願[6]。ようやく分水工事を行うことが決定し、1870年(明治3年)には第1期大河津分水路工事が開始された[4][5]。だが技術的な問題や地元の負担、及び水量の減少により河口部に立地する新潟港の維持が出来なくなる事を危惧した新潟町民等による反対運動や、これらの不満を糾合した一揆悌輔騒動)が発生し、また外国人技術者の意見もあったことから、1875年(明治8年)に工事は中止になった[4][5]
信濃川河身改修事業[ソースを編集]

中止された分水路工事の替わりとして@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}翌1876年[要出典]内務省による「信濃川河身改修事業」が着手された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef