大河内傳次郎
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おおこうち でんじろう
大河内 傳次郎

本名大邊 男(おおべ ますお)
別名義正親町 勇
室町 次郎
西方弥陀六(筆名)
大河内 傳二郎
生年月日 (1898-02-05) 1898年2月5日
没年月日 (1962-07-18) 1962年7月18日(64歳没)
出生地 日本福岡県築上郡岩屋村(現・豊前市
死没地 日本京都府京都市右京区嵯峨小倉山田淵町(大河内山荘
職業俳優
ジャンル映画
活動期間1925年 - 1961年
活動内容1925年:映画デビュー
1926年日活に入社
1931年大河内山荘を造営
1937年東宝へ移籍
1946年:「十人の旗の会」立ち上げ、翌年新東宝創立
1957年東映に入社
主な作品
忠次旅日記
新版大岡政談
丹下左膳』シリーズ
姿三四郎
虎の尾を踏む男たち

 受賞
ブルーリボン賞
特別賞
1963年
その他の賞

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大河内 傳次郎(おおこうち でんじろう、新字体:伝次郎、1898年明治31年)2月5日(戸籍上は3月5日)- 1962年昭和37年)7月18日)は、日本映画俳優。本名:大邊 男(おおべ ますお)。

戦前を代表する時代劇スターの一人であり、阪東妻三郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫とともに「時代劇六大スタア」と呼ばれた[1]サイレント期は、伊藤大輔監督・唐沢弘光撮影のトリオで『忠次旅日記』『新版大岡政談』などの名作を生んだ。悲愴(ひそう)感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で、従来の時代劇スターの定型を破り、人気を不動のものとした[2][3]。当たり役は丹下左膳で、トーキー時代の作品では地元の豊前なまりで「シェイハタンゲ、ナハシャゼン(姓は丹下、名は左膳)」と言う決めゼリフで人気を得た。戦後は大物の助演者として活躍した[4][信頼性要検証]。京都大河内山荘を造営したことでも知られる。
来歴
俳優へ

1898年(明治31年)2月5日福岡県築上郡岩屋村字大河内(現・豊前市大河内)に、父・晋と母・アキの五男として、9人兄妹(5男4女)の8番目に生まれる[5][注釈 1]。大邊家の先祖は中津大江郷の藤原孝範で、代々岩屋村で医者をしていた[7]。父はその十六代目で、藩主の侍医を勤め、維新後は町医者を開業した人であった[8]。父方の祖父はやはり医者の大辺耕斎で、祖母は小倉藩医だった末松玄洞の六女・シンである[8][注釈 2]。また、母方の祖父は中津藩士で儒学者の大久保麑山(通称は逕三[10][8]である。

小学校卒業後、大分県立臼杵中学校に入学[5]。しかし、1908年(明治41年)5月に父が死去し[8]、家運が傾いたため、すぐ就職のできる商業学校への転校を余儀なくされ、1913年(大正2年)に中学を3年で中退し、大阪に暮らす次兄・弘を頼って大阪商業学校予科に入学した[5][11]。同校では剣道部に入り、学業とともに剣道に精を出した[5]1915年(大正4年)に本科に進み、1918年(大正7年)に卒業[11]神戸高等商業学校に受験するが失敗し[5]、弘の経営する日光社[注釈 3]で会計部長として働いた[11]。やがて日光社の取引先である明治屋の仕入部に勤めるが、1923年(大正12年)9月1日関東大震災で会社を辞めて引き上げ、再び日光社に勤めた[5][14]

同年、劇作家を志望して倉橋仙太郎が主宰する新民衆劇学校に第二期生として入校する[5]。もちろん脚本家志望だったが、倉橋に「脚本を書くにしても俳優の体験も必要だ」と言われたことがもとで俳優に転向し、翌1924年(大正13年)4月に大阪市中央公会堂での公演『天誅組』などに正親町勇の名で出演した[5]1925年(大正14年)5月、研究生は新民衆座の名で帝国大学で野外劇を公演し、大河内も室町次郎の名で出演した[5]

同年、聯合映画芸術家協会設立第2作で、新民衆座の出演で製作した衣笠貞之助監督の『弥陀ヶ原の殺陣』に座員の一人として、目明し紋治役で出演。原作は大河内が西方弥陀六の筆名で書いた四幕の舞台脚本『若き日の忠次』である[5]。撮影は新民衆座が宝塚中劇場に出演中の6月に行われたが、これを終えると東上し、7月1日に倉橋の第二新国劇の旗上げに参加。第1回公演の『天誅組』で代官所用人・木村裕次郎役、『愛宕の義憤』で藤倉軍平役を演じて早くも注目された[5][15]。さらに同年には『愛宕の義憤』を脚色した高松プロダクション製作の『義憤の血煙』で2度目となる映画出演をし、舞台と同じ藤倉軍平を演じた。その後は金井修、西村実、倉橋信雄とともに第二新国劇の四天王と呼ばれ、『次郎長と石松』の次郎長、『若き日の忠次』の日光の円蔵などを得意とした[5]
時代劇スターに

1926年(大正15年)8月、日活大将軍撮影所に入社[5][16]。入社の経緯は、大河内の母方の従弟が大将軍撮影所長の池永浩久と郷里(中津市)を同じくし、私塾[注釈 4]でも同じだったことから、同じく従弟同士の大久保謙治[注釈 5]浅岡信夫に薦められて日活入りを池永に頼んだ際、ついでに大河内の入社も頼み、2人とも入社がかなったということである[5][注釈 6]。しかし、誰も室町次郎を知る者もいなければ素質を認める者もなく、それゆえ彼を使おうとする者もいなかった。

ただ、同年に日活に入社し、舞台で演ずる大河内を知っていた伊藤大輔監督にはその素質を認められ、伊藤の入社第1作『月形半平太』の主役に起用されるが、会社は無名を理由に反対したため、伊藤は大河内主演用に『月形半平太』を裏返しにしたストーリーを書き、『長恨』の題名で作品を撮影した[5][18]。同作のラッシュプリントを観た池永は大河内を気に入り、池田富保監督の『水戸黄門』で急病の三桝豊の代役として槌田左門役に抜擢(ばってき)され、かけ持ち出演した。続いて大佛次郎原作の『照る日くもる日』では河部五郎の共演者として出演することとなったが、そのせいで『長恨』の撮影は遅れ、大河内のデビュー作の公開は11月15日に伸びてしまった。しかし、これらの演技で大河内は評判を呼び、次第に頭角を現していった。

日活入社時は恩師の沢田正二郎の二郎の字を取って、芸名を大河内傳二郎としたが、『長恨』公開時に宣伝部の誤りで大河内傳次郎と表記され、以降は傳次郎で通した[5][2]。姓の大河内は、出身地の町名である大河内(ただし読み方は「おおかわち」)から取ったものである[19]

デビューと同時に注目を浴びた大河内は、翌1927年(昭和2年)だけで21本の作品に出演。この中には伊藤監督・唐沢弘光撮影の『忠次旅日記』全三部作、河部と共演した『地雷火組』『弥次?多』三部作、井伊直弼を演じた『建国史 尊王攘夷』などがあり、特に『忠次旅日記』はキネマ旬報ベストテンで第二部が1位、第三部4位にランクインされ、サイレント映画時代劇の金字塔ともいえる傑作[20]となった。この作品以降、伊藤監督・唐沢撮影のコンビで『血煙高田の馬場』などの時代劇を連発。このゴールデントリオによる作品で一躍空前の人気を集めた大河内は、大スターとしての地位を決定的なものにした。

1928年(昭和3年)、伊藤と唐沢のトリオで撮った『新版大岡政談』で初めて丹下左膳を演じた。元々原作ではあまり重要人物ではなかったが、この作品では左膳を前面に押し出し、大河内は大岡越前と左膳の二役を演じた。アクの強い丹下のキャラクターは大評判となり、刀の鍔を口元に持ってきて見得を切る「丹下左膳」のキャラクターは大河内のシンボルとなり、彼の当たり役となった。トーキー時代に入ると、少し地元の豊前訛りのある大河内の「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」(は丹下、は左膳)という決めセリフが一世を風靡(ふうび)、後代まで多くの人々が物真似にする名文句になった。結果、生涯を通して「丹下左膳」の題名を持つ主演映画は17本を数えるに到った。

同年7月、『大菩薩峠』の映画化問題が発生し、伊藤監督が退社したが、大河内は残留となった。11月頃、幾つかの作品で共演した伏見直江との恋愛問題が噂に上り、結婚説まで浮上した[21]。それが原因してか、同年末には池永と衝突して12月25日に日活を退社した[5][22]1929年(昭和4年)3月4日、沢田正二郎が急死、それで一時新国劇の舞台に立ち、新橋演舞場での追悼公演にも特別出演した[5]

同年4月30日、日活に復社し、復社第1作の『沓掛時次郎』は大ヒットした[5][23]1930年(昭和5年)には伊藤監督も復社し、唐沢を含めて再びこのゴールデントリオで『素浪人忠弥』『興亡新撰組』『御誂次郎吉格子』といった傑作時代劇を連発した。このほか、内田吐夢監督の『仇討選手』、山中貞雄監督の『盤嶽の一生』『丹下左膳余話 百萬両の壺』などにも主演。


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