大沢清
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大沢 清名古屋軍時代(1939年)
基本情報
国籍 日本
出身地神奈川県藤沢市
生年月日1916年12月1日
没年月日 (2005-07-14) 2005年7月14日(88歳没)
身長
体重173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション内野手
プロ入り1937年
初出場1937年
最終出場1954年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


神奈川県立商工実習学校

國學院大學(中退)

名古屋軍
中部日本
中部日本ドラゴンズ
中日ドラゴンズ
(1937 - 1941, 1946 - 1948)

東急フライヤーズ (1949)

大洋ホエールズ (1950 - 1951)

広島カープ (1952 - 1954)

東京ガス

監督歴


國學院大學

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

大沢 清(おおさわ きよし、1916年12月1日 - 2005年7月14日)は、神奈川県藤沢市出身[1]プロ野球選手内野手)。右投右打。プロ野球選手の大沢紀三男大沢啓二は弟[1]タレント大沢あかね従孫娘
来歴

神奈川県立商工実習学校國學院大學を経て、1937年名古屋軍へ入団しプロ入り[1]。1年目から内野のユーティリティプレイヤーとして活躍し、1939年には川上哲治に次ぐ打率.310を記録する。第二次世界大戦終戦後、1946年に後身である中部日本軍へ復帰し、1949年東急フライヤーズへ移籍[1]

1950年には新球団として発足した大洋ホエールズへ移籍し、一塁手に定着。当時の日本記録となる1シーズン45二塁打[2]を記録するなどチームの主軸選手として活躍し[1]、同年はリーグ5位の打率.327を残す。1951年は大沢 伸夫(おおさわ のぶお)の登録名でプレーする。

1952年石本秀一のたっての希望もあり、大沢 薫史の登録名で広島カープへ入団[1]。既に35歳とチーム最年長であったが、四番に入って開幕1ヶ月は打撃成績トップを走る[3]。その後息切れしたが、チームトップの打率.279(リーグ16位)、43打点を記録した。1953年からは大沢 伸夫に登録名を戻してプレー。松竹ロビンスから移籍入団した小鶴誠に四番を譲るが、三番一塁手としてフル出場。現役最終年となった1954年規定打席を打ち、打率.257で打撃成績25位に入っている。

引退後、ノンプロの東京ガス硬式野球部へ補強選手として都市対抗野球に出場。1960年に母校の國學院大學硬式野球部監督へ就任[1]1965年から國學院大の文学部講師を経て教授を務めた[1]

2005年7月14日死去。享年88。
選手としての特徴

右中間への流し打ちを得意とした[3]
人物

球場の外では身なりにもほどよく気を配り、ファンからも人気があったという[3]
詳細情報
年度別打撃成績







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