大沢慶己
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おおさわ よしみ
大沢 慶己
(大澤 慶己)
1953年、第4回東京都選手権大会にて優勝
生誕 (1926-03-06) 1926年3月6日
千葉県印旛郡宗像村
(現:印西市
死没 (2022-10-21) 2022年10月21日(96歳没)
死因肺炎
国籍 日本
出身校早稲田大学
職業柔道家
著名な実績全日本柔道選手権大会出場
全日本東西対抗柔道大会出場
流派講道館十段
身長167 cm (5 ft 6 in)
体重67 kg (148 lb)
肩書き全日本柔道連盟評議員・理事(元)・顧問(現)
講道館参与(元)・評議員(現)
講道学舎学頭(元)
早稲田大学名誉教授(現) ほか
受賞早稲田大学スポーツ功労者(2006年)
印西市名誉市民(2010年)
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大沢 慶己(大澤 慶己、おおさわ よしみ、1926年3月6日 - 2022年10月21日)は、日本柔道家講道館十段)、早稲田大学名誉教授

現役時代は身長167cm・体重67kgという小躯ながら、松本安市醍醐敏郎ら戦中・戦後を代表する大型選手達と鎬を削り、全日本選手権大会や全日本東西対抗大会等の主要大会で活躍。その軽快な身のこなしから“今牛若丸”や“昭和の小天狗”と呼ばれた。

引退後は1964年東京五輪でコーチを務め、後に全日本柔道連盟国際試合選手強化委員会(女子)委員長や講道館女子部部長を歴任して黎明期の女子柔道の礎を築いたほか、母校・早稲田大学では柔道部師範や教授を務めるなど半世紀以上に渡り後進の指導に当たって、今日の柔道の隆盛に大きく貢献した。講道館で事実上の最高段位となっている十段位の所有者でもある。
経歴
生い立ち

千葉県印旛郡宗像村(のちの印旛村、現在の印西市)造谷にて4人兄妹の長男として生まれる[1][注釈 1]。父親は農業を営む傍ら永く同村の村長も務める家柄で[注釈 2]、田舎だったためスポーツをやるような環境にはなかったが、大沢は幼少時より野山を駆け回って遊んでいた関係で自然と足腰は強くなっていったという[1]1932年に宗像尋常高等小学校(のちの市立宗像小学校)に入学し、卒業後の1938年4月に旧制佐倉中学校(のちの県立佐倉高校)に進むと武道のうち柔道剣道が必修となっていて、大沢はこのうち柔道を選択することに[1]。更に、幼い頃から体が小さく丈夫では無かった大沢の将来を案じた父の勧めで柔道部にも入部することとなり、大沢は当時を振り返って「体が小さかったので柔道をやるなんて考えてもいなかったが、父親の言う事は絶対だった」と述懐する[1]中学時代の通学路となっていた印旛沼

柔道部では、国士舘大学OBの土谷新次(のち講道館八段)による指導のもと、約30人の柔道部仲間たちと日々2時間程度のまとまった稽古に励んだ[1]。また、自宅から旧制佐倉中学校までは片道約8kmの道程があり、自宅から印旛沼(西沼)まで砂利道の悪路を自転車で全力疾走し、印旛沼を渡し船で自転車ごと渡って更に対岸からは臼井駅まで自転車を漕ぎ、最後に臼井駅から佐倉駅まで汽車で向かっていた[2]。この片道3時間の通学を卒業するまでの5年間続けた結果、大沢の足腰は否応無しに自ずと鍛えられ、益々強く逞しくなっていった[2]。なお、印旛沼では突風に煽られて船ごと転覆し、沼に落ちたことも2度ほどあったという[1][注釈 3]。旧制佐倉中学校時代は身体が小さく柔道を始めて間もなかったこともあり、「納得のいくような試合は無く、あまりパッとしなかった」と自身は述べているが[1]、この間1941年11月に講道館へ入門して、1週間後には初段を受け黒帯を許されたほか、1943年2月の講道館月次試合では15人抜きの偉業を達成し翌3月には二段となった[1]。天性の反射神経や体捌きは当時から秀でていたようで、内股の名手であった師の土谷を逆に内股透で転がし渋面を作らせたことも何度かあったという[2]。中学校卒業に際しては、同じ旧制佐倉中学校から早稲田大学に進学していた鈴木吾郎から誘いを受けたが、大沢本人に拠れば推薦が来るほど柔道が強くは無かったので一般受験をし、同大専門部商科に合格した[1]
早稲田で頭角を現す学徒出陣から帰り早稲田の学友たちと(前列右端が大沢)

1943年4月に早稲田大学に入学し柔道部に入部すると、師範には三船久蔵徳三宝らが顔を揃え、月に1度ほどではあったが指導に来てその薫陶を受けた。このほか早稲田大学時代に印象に残った人物として、大沢は小内刈の名人・山本秀雄の名を挙げている[1]。入部早々の第4回柔道早慶戦には先鋒として出場・活躍する機会を得て、翌44年2月の講道館月次試合ではまたも12人抜きという快挙を達成[1]、同年9月には三段位に列せられた。大学在学中は主将を務め[2]、学校で2時間の部活動の後に講道館へ通って更に2時間稽古し、その移動手段はランニングということもあったという。日々4時間という稽古時間は現在の大学柔道部と比べてもかなり長く、いわゆる“猛稽古”の部類に入るが、大沢は「当時はそれが普通だった」と謙遜する[1]。一方で、太平洋戦争のために1945年6月に陸軍歩兵第57連隊(佐倉連隊)に入隊。千葉県の館山市で防衛の任に当たったが、着任して2ヵ月後には終戦を迎えた[1]

1946年3月に大学を卒業後は、1947年11月の第1回稲門三田対抗戦に出場して水谷英男と引き分けたほか、1948年3月の都下近県選手権大会に四段の部で出場して夏井昇吉や成毛秀臣らを降し優勝。同年5月の講道館春季紅白試合では後々までライバルとなる醍醐敏郎四段に敗れたものの、10月の関東一部六県優勝試合には千葉県の副将として出場し、決勝戦で醍醐を破って雪辱を果たした。なお、大沢・醍醐の両者は同じ1926年に同じ千葉県で生まれ[注釈 4]、体格こそ大きく違うが互いにライバルと認め合い、全日本を2度制した醍醐は「俺は大沢に負けた」と周囲に語り、一方の大沢も「醍醐さんは本当に強かった」と讃えている[1]。このほか学生時代には、48年10月の全関東全九州対抗試合に出場し石橋五段を試合開始わずか30秒で出足払に仕留め、翌日の十地区対抗試合には関東軍大将として出場して同年の全日本選手権大会覇者である松本安市大外刈移腰で逆襲し鮮やかに破る金星を挙げたほか[4]、11月の第2回稲門三田対抗戦では小坂肇五段を降した記録が残っている。学生時代を戦時下・占領下に過ごしたために多くの大会や試合には恵まれなかったが[5]、それでも柔道評論家のくろだだけしは、この柔道界の不毛時代に奇跡的に育った2人の選手として大沢・醍醐の名を挙げている[6]


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