大江氏
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大江氏
氏姓大江
朝臣
始祖大江音人
出自土師宿禰
氏祖大枝諸上
種別神別天孫
本貫山城国乙訓郡大枝郷(大江郷、於保江郷)
京都府大枝村大枝、('50 ? )京都市右京区、('76 ? 西京区大枝地区[1]
著名な人物大江音人
大江千里
大江匡衡
大江嘉言
和泉式部
赤染衛門
大江匡房
大江広元
後裔北小路家公家華族子爵))
北小路家分家(公家・華族(男爵))
徳岡家(地下家
毛利氏(武家・華族(公爵))
寒河江氏(武家)
長井氏(武家)
那波氏(武家)
海東氏(武家)
上田氏(武家)
桂氏(武家・華族(侯爵))
酒井氏(武家・華族(伯爵))
芦澤氏(武家)
越後北条氏(武家)
安田氏(武家)
山村氏(武家)
浅井氏(武家)[2] など
凡例 / Category:氏

大江氏(おおえうじ)は、「大江」をの名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣

日本の古代から近世貴族。「大江」は本姓)であり、苗字ではない(藤原と同じ)。
奈良時代

古代氏族である土師氏が源流とされる。桓武天皇が即位10年となった延暦9年(791年)に、縁戚関係にある土師諸上らに大枝の姓を与えた。
平安時代

866年貞観8年)10月、大枝音人が姓を改め、大枝から大江へと改姓した。その理由は、(分家)が大きいと、本体である木の(本家)が折れる(下克上)事にも繋がり不吉である、とのことであった。しかし、大枝姓は桓武天皇より与えられたものであることから、全面的に変更するわけにもいかず、読み方はそのままで漢字表記のみの変更に留めた。また、大江には、大きな川(江)の様に末永く家が栄えるように、との意味があるという[3]

大江氏には優れた歌人や学者が多く、朝廷に重く用いられた。中古三十六歌仙と呼ばれる和歌の名人三十六撰に、大江氏から大江千里大江匡衡大江嘉言、女性では和泉式部赤染衛門(匡衡の妻)らが選出されている。大江匡衡の曾孫に、平安時代屈指の学者であると共に河内源氏源義家(八幡太郎)に兵法を教えたとされる大江匡房がいる。

11世紀には、摂関家の藤原氏を頂点とした家柄の序列が固定されており、大江氏は五位で地方国司、中級ないし下級貴族であった。その一方、家学学者でもあったので、文人貴族を輩出する事になる[4]
鎌倉時代

1184年元暦元年)に河内源氏の棟梁の源頼朝に仕えた大江広元大江匡房の曾孫であり、頼朝の覇業を内政面で支えた。頼朝が鎌倉幕府を開くと広元は幕府の中枢を昇りつめ、広大な所領を得た。広元は子らに領地を分配したことから武家の大江氏として毛利氏をはじめとする武家の祖となった。

1221年承久3年)承久の乱において京都守護の広元嫡男の大江親広が失脚し、また1247年宝治元年)に広元四男の毛利季光が、宝治合戦三浦泰村に味方したために討たれるが、広元次男の長井時広の子孫(長井氏)は鎌倉幕府の評定衆引付衆などの要職を務め、鎌倉幕府滅亡後も足利尊氏側近として室町幕府中枢にあり、14世紀に伊達氏出羽国置賜郡長井荘を奪われるまで勢力を保った。
その後一文字三星(長門星)

大江広元の後裔は各地方で武家として活躍した。その末裔に以下が挙げられる。また、季光の四男・毛利経光の子孫(毛利氏)は安芸国吉田荘に定着し、その血統から戦国時代に中国地方の覇者となった戦国大名毛利元就や、豊臣政権五大老毛利輝元が出た。「一文字に三つ星」を家紋として、「広」「元」を通字(とおりじ)とする家が多い。

また、広元の兄・匡範の子孫は宮廷官人として残り、室町時代後半からは北小路を称し、江戸時代地下家として3家(蔵人2家、近衛家諸大夫1家)を出した。このうち、代々蔵人を務めた2家は江戸時代後期の弘化4年12月17日1848年1月22日堂上家半家)に列せられた(最後の堂上家昇格)。
系図 大江氏

大枝諸上

   

本主

   

大江音人

                   
                  
公幹玉淵千里千古

                  
            
清忠朝典朝衡朝綱維明維時

                 
        
如度成通清胤仲宣斉光重光

               
     
忠度成利以言嘉言寂照匡衡

       

師季行職挙周

               
            
清俊通友盛俊盛賢成衡

     

通清匡房


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