大江宏
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大江宏
生誕
1913年(大正2年)6月14日
秋田県秋田市
死没 (1989-03-03) 1989年3月3日(75歳没)
東京都中央区
国籍 日本
出身校東京帝国大学
職業建築家
受賞日本建築学会賞作品賞(1958年)
日本芸術院賞(1981年)
勲三等旭日中綬章(1985年)
日本建築学会賞大賞(1988年)

所属大江宏建築事務所
建築物法政大学55年館・58号館
香川県立丸亀高等学校武道館
国立能楽堂

大江宏(おおえ ひろし、1913年大正2年)6月14日 - 1989年平成元年)3月3日)は、日本建築家秋田県秋田市生まれ。モダニズムと日本の伝統様式とを決して融合することなく「混在併存」させた建築意匠で知られる。また、教育者として法政大学建築学科の礎を築き、多くの後進を育成した。主な作品に法政大学、丸亀武道館、普連土学園国立能楽堂など。日本芸術院会員。勲三等旭日中綬章叙勲。父の大江新太郎明治神宮造営技師を務め、日光東照宮の修理、および明治神宮宝物殿、神田明神の設計を手がけた建築家。長男の大江新は建築家・法政大学名誉教授
目次

1 経歴

2 作品

3 著書

4 脚注

5 参考文献

経歴

1913年(大正2年) 父・大江新太郎、母規矩児(菊路)の長男として、秋田市にて生まれる。生後間もなく父の赴任地、日光山内安養院に戻る。

1916年(大正5年) 大江新太郎は、日光東照宮修理事業に主任技師として関わる。東京赤坂台に転居。さらに小石川原町に転居。

1918年(大正7年) 東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)付属幼稚園に入園。

1920年(大正9年) 成蹊小学校入学。

1925年(大正14年) 成蹊小学校卒業。成蹊高等学校尋常科へ進学。

1930年(昭和5年) 成蹊高等学校高等科へ進学。

1934年(昭和9年) 成蹊高等学校卒業。東京帝国大学を受験するも不合格。

1935年(昭和10年) 東京帝国大学工学部建築学科入学。同級生に、丹下健三浜口隆一、一級上には、薬師寺厚立原道造、入江雄太郎(留年し卒業は同期)らがいた。6月、父・新太郎死去。

1938年(昭和13年) 東京帝国大学卒業。卒業論文「建築平面」、卒業設計「工作文化研究所」。丹下健三、浜口隆一とともに辰野賞銅賞を受賞。卒業後半年ほど浪人し、その後文部省宗教局保存課に勤務。内閣紀元二六〇〇年祝典事務局嘱託として、歴史博物館計画を担当。あわせて神武天皇聖跡調査を命じられる。

1941年(昭和16年) 文部省を辞し、三菱地所建築部入所。工場、寮のほか、朝鮮平壌市「三菱製鋼迎賓館」を設計。10月6日、山羽まりと結婚。

1942年(昭和17年) 東京・世田谷の自邸をコロニアル風に設計(戦時下の十五坪制限住宅)。

1946年(昭和21年) 三菱地所退社。弟の透・修とともに大江建築事務所設立。

1948年(昭和23年) 法政工業専門学校建設科教授に就任。大学時の師・平山嵩の口添えで建設科(建築+土木)の創設メンバーに加わる。大江建築事務所を大江宏研究室と改称。

1950年(昭和25年) 法政大学工学部建設工学科誕生。助教授に就任。

1952年(昭和27年) 法政大学市ヶ谷キャンパス計画着手。

1953年(昭和28年) 教授に昇格。

1954年(昭和29年) 3月、サンパウロ市400年記念日本館(設計:堀口捨己)の監理とヴェネツィア・ビエンナーレ日本館敷地選定のため海外出張。あわせて北南米、ヨーロッパ14ヵ国を約半年間にわたって旅行。丹下健三吉阪隆正らと共に「例の会」を発足。

1958年(昭和33年) 日本建築学会理事、『建築雑誌』編集委員長(1957年3月号?59年2月号)。

1959年(昭和34年) 日本建築家協会理事、企画委員長。日本建築学会賞選考委員。「法政大学校舎」において、文部大臣芸術選奨および日本建築学会賞作品賞受賞。

1960年(昭和35年) メキシコ建築家協会名誉会員。「法政大学校舎」により建築業協会賞受賞。


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