北小路家
(大江氏)
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}引両(三つ引両?)(ひきりょう(みつひきりょう))
本姓大江朝臣嫡流
家祖北小路俊宣
北小路家(きたこうじけ)は、大江氏嫡流の公家・華族の家。公家としての家格は半家、華族としての家格は子爵家。 大江匡重
概要
明治維新の明治2年(1869年)華族制度の発足とともに旧公家として華族に列し、明治14年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると同8日に大納言直任の例がない旧堂上家として俊親が子爵に叙せられた[2]。なお分家の北小路俊昌も明治以降に堂上家の半家に昇進したことで華族に列しており、明治14年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると同8日に一新後華族に列せらるる者として男爵に叙位された(その継嗣の俊岳の代の1901年に爵位返上)[3]。
3代子爵の三郎は貴族院の子爵間の互選で子爵議員に当選して務めた。また宮内省で侍従や式部官、図書寮編修官、同御用掛などを歴任した[4][5]。
大江氏北小路子爵家は昭和前期に東京市杉並区馬橋にあった[5]。 国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末の大江氏北小路家領は4村・49石5升6合2勺5才で、その内約は以下の通り。 大江維光
幕末の領地
山城国愛宕郡吉田村のうち - 30石2斗1升2勺5才
山城国愛宕郡上加茂村のうち - 10石6斗
山城国愛宕郡花園村のうち - 1石9升6合
山城国葛野郡下津林村のうち - 7石1斗5升
系譜 大江氏
実線は実子、点線(縦)は養子。
匡範
周房
信房
重房
信俊
維房宗房
熙房
匡重
北小路俊宣
俊泰俊子
俊永
俊直
慶忠俊孝
快俊俊記
俊祇俊里
俊真俊光俊冬
俊包俊正
(俊里)俊在俊任
俊民俊章俊広
俊盛俊任俊興[6]俊冬俊徳
俊名俊冬俊良
俊幹[7]俊周俊矩[8]