凡例大江 匡房
大江匡房肖像(菊池容斎画)
時代平安時代後期
生誕長久2年(1041年)
死没天永2年11月5日(1111年12月7日)
別名江帥(号)、江大府卿、江都督
官位正二位・大蔵卿
主君後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇
氏族大江氏
父母父:大江成衡、母:橘孝親
大江 匡房(おおえ の まさふさ)は、平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥(ごうのそつ)と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。小倉百人一首では権中納言匡房。鎌倉幕府創建に功を成した大江広元は曾孫にあたる。 大江氏は古くから紀伝道を家学とする学者の家柄であり、匡房も幼少のころから文才があったと伝えられる。匡房の詩文に関する自叙伝『暮年記』の中で「予4歳の時始めて書を読み、8歳のときに史漢に通ひ、11歳の時に詩を賦して、世、神童と謂へり」と書いている[2]。早くも天喜4年(1056年)16歳にして省試に合格して文章得業生に、康平元年(1058年)に対策に及第し、康平3年(1060年)には治部少丞・式部少丞を経て従五位下に叙爵した。 その後は、目立った官職にも任じられず身の上を不満に思って出家・隠遁しようとするが、中納言・藤原経任の諫止により思いとどまる[3]。その後、匡房は春宮・尊仁親王の御所に参上するようになるが、困窮により衣服に事欠く状況であったため、他の人から装束を借りていたという[3]。治暦3年(1067年)尊仁親王の東宮学士に任じられると、学士を務める中で尊仁親王の信頼を得た。 治暦4年(1068年)4月に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると五位蔵人に補せられる。当初は官職もなく蔵人のみを帯びていたため、蔵人の式部大夫と呼ばれていたが[3]、7月に欠官が生じたため中務大輔に任ぜられるとともに、学士の労により正五位下に昇叙された。翌延久元年(1069年)左衛門権佐(検非違使佐)・右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得た。また、東宮・貞仁親王の東宮学士も務める。後三条朝では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、匡房は藤原実政や藤原正家らとともにブレーン役の近臣として重要な役割を果たしている。中でも匡房は朝から晩まで始終天皇に近侍していたという[3]。 延久4年12月(1073年1月)の貞仁親王の即位(白河天皇)後も引き続き五位蔵人を務めるとともに、実仁親王の東宮学士となり三代続けて東宮学士を務める。延久6年(1074年)従四位下・美作守に叙任されて一旦弁官を離れるが、翌承保2年(1075年)正四位下と順調に昇進する。美作守に任ぜられても引き続き東宮学士を務めていたため、任地に赴くことは多くなかったと想定される[4]。一方で、美作国在地豪族と思しき藤原秀隆のために願文を作成するなど在地民との関係が見られるほか[5]、承保4年(1077年)には、関白・藤原師実から美作国の所領を譲り受けるなど[6]、受領として経済的な躍進ぶりを示している[4]。なお、この間の承暦2年(1078年)自らの邸宅に江家文庫 承暦4年(1080年)権左中弁として弁官局に復す。当時は一度地方官に遷ると、そのまま転々と地方官を渡り歩くケースも多かったが、匡房は相応の経済力を蓄えて京官に復したところに匡房の慎重さが窺い知れる一方、当時の宮廷において匡房のような故実に精通した学者官僚が必要とされていたことも、京官への復帰を可能とした要素の一つとも考えられる[7]。
経歴
若年期
後三条朝
白河朝