大橋訥庵
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大橋訥庵

大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年〈1816年〉 - 文久2年7月12日1862年8月7日〉)は、江戸時代後期の儒学者尊王論者は正順、通称は順蔵、は周道、訥庵は号で「とっつあん(父っつあん)」の言葉に洒落て漢字を宛てたもの[1][2]坂下門外の変を計画した人物であり、幕末尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。
生涯
生い立ち

文化13年(1816年)、長沼流兵学者の清水赤城の四男として生まれる[1]。当初、母方の親族である信濃飯山藩士の酒井力蔵の養子となるが後に離縁している[1][2]天保6年(1835年)、儒学者の佐藤一斎に師事する[1]。天保12年(1841年)、江戸日本橋の豪商佐野屋大橋淡雅の娘巻子と結婚し大橋姓を名乗る[3][4]。同年、日本橋において思誠塾を開き、子弟に儒学を指導する[3][4]。訥庵による指導は好評で、嘉永3年(1850年)には下野宇都宮藩主・戸田忠温の招きにより、月1回江戸藩邸において儒学を教授した[4][5]
攘夷論への傾倒

嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、訥庵の尊王攘夷論は過激になっていく。外夷を打ち払うことを幕府に建言し、全国的に注目されるようになった[4][5]。嘉永6年10月、徳川斉昭に「隣疝臆議」を送り、攘夷の所論の実行を迫る[6]安政3年(1856年)には思誠塾を小梅村(現在の東京都墨田区向島)へ移転した[7]。これは前年の安政の大地震により塾が倒壊したためである[7]。安政4年(1857年)には『闢邪小言』を刊行し、この中で朱子学の立場から西洋文明を厳しく批判し、多くの人々の共感を得ることとなった[8]。安政5年(1858年)、安政の大獄において処刑された儒学者の頼三樹三郎の遺体が埋葬もされずに打ち捨てられていることを見かね、門弟とともに小塚原刑場まで行き、三樹三郎の遺体を棺に納め埋葬している[9]
安藤老中への憎悪

安政7年(1860年)、大老井伊直弼が江戸城桜田門外において水戸藩浪士暗殺される(桜田門外の変)。直弼暗殺後に幕府の最高実力者となった老中安藤信正公武合体の実現のため、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻を画策する。訥庵はこの婚姻に強硬に反対し、討幕を企てるようになる[10]。文久元年(1861年9月5日、門弟の椋木八太郎は訥庵の作成した「政権恢復秘策」を上奏するために京へ向かった[11]。秘策の中で、訥庵は公武合体に否定的な見解を示し、朝廷には攘夷の勅命を出すことを要請している[12]

同月、訥庵は宇都宮の児島強介を水戸へ赴かせる[13]。外国人を襲撃して幕府を混乱させ、公武合体を頓挫させることを訥庵は意図しており、水戸藩の志士に外国人襲撃の協力を求めるものであった[13]。これに対し、水戸藩の激派からは宇都宮藩の志士と協力して老中安藤信正を暗殺したい旨の回答があった[14]。強介は訥庵に水戸側の回答を伝える[14]。訥庵としては老中暗殺は時期尚早であり、朝廷からの「政権恢復秘策」の回答を得てから判断したいと考えていた[15]。結果として、訥菴の秘策は朝廷に採用されることはなく、10月18日には和宮の降嫁が勅許される[16]。11月6日にはプロシアとの条約交渉を行っていた元外国奉行堀利煕が突然謎の自刃を遂げた事件があったが、これに事寄せて堀の安藤に対するという諫言の書と称する偽書を捏造して尊攘派の間に回覧し[17]、堀が安藤への抗議の自害をしたとの世論を醸成した。


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