大樹寺
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この項目では、愛知県岡崎市に所在する寺院について説明しています。愛知県岡崎市に所在する町丁については「大樹寺 (岡崎市の町名)」をご覧ください。

大樹寺

三門
所在地愛知県岡崎市鴨田町広元5-1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度59分3.86秒 東経137度9分55.09秒 / 北緯34.9844056度 東経137.1653028度 / 34.9844056; 137.1653028 (大樹寺)座標: 北緯34度59分3.86秒 東経137度9分55.09秒 / 北緯34.9844056度 東経137.1653028度 / 34.9844056; 137.1653028 (大樹寺)
山号成道山(じょうどうさん)
宗派浄土宗
本尊一光千体阿弥陀如来如意輪観世音菩薩
創建年天文4年(1535年
開基松平親忠
正式名成道山 松安院 大樹寺
札所等三河三十三観音3番
三河新四国八十八ヶ所霊場21番・22番(成道閣)
文化財多宝塔、絹本墨画淡彩如意輪観音図、大方丈障壁画(重要文化財)
山門、木造阿弥陀如来坐像、絹本著色山越阿弥陀如来図ほか(愛知県指定文化財)
法人番号5180305000350
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大樹寺(だいじゅじ / だいじゅうじ[1])は、愛知県岡崎市鴨田町にある浄土宗寺院徳川氏松平氏)の菩提寺。正式には成道山松安院大樹寺(じょうどうさん しょうあんいん だいじゅじ)と称する。
歴史
三河松平家菩提寺の創建松平親忠が築いた千人塚(岡崎市鴨田町字向山)

応仁元年(1467年)8月23日、尾張品野、三河伊保の軍兵が大挙して井田野に攻め寄せた。安城松平家当主の松平親忠は500余騎でこれを迎え撃ち、一夜と半日の戦いで破った。この第一次井田野合戦おける戦死者を弔うため、親忠は現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた[2][3][4][注 1]

その後、文明7年(1475年)になって、塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた(現在の鴨田町字向山の西光寺)。そして、鴨田の旧館址に一寺を建立した。増上寺開山聖聡の孫弟子の勢誉愚底(せいよぐてい)を講じて七日七夜の間、別時念仏を修し、勢誉愚底を開山としてこの一寺を大樹寺と称した[2][3][6]。寺号の「大樹」は征夷大将軍唐名であり、寺伝では、松平氏から将軍が誕生することを祈願して勢誉愚底により命名されたと伝えられているが、釈迦入滅地の沙羅双樹にちなんだものとの説もある[7]

親忠により大樹寺は安城松平氏の菩提寺とされた。松平郷高月院にあった墓から分骨され、親忠は、先代3代である松平親氏松平泰親松平信光の墓をそれぞれ大樹寺に移設した[8]。なお、信光明寺には現在も親氏、泰親、信光の墓である3基の宝篋印塔が残っており、そのため、大樹寺にある3氏の墓は信光明寺から移転したものとも言われている[9]

天文4年(1535年)、岡崎松平家当主の松平清康により再興され、一層方形二層円形の多宝塔が建立された。
桶狭間の戦いと徳川家康桶狭間の戦い直後の大樹寺での戦いを描いた浮世絵(月岡芳年画)[10]

永禄3年(1560年)5月19日、織田信長今川軍の本陣を急襲。桶狭間の戦いで総大将の今川義元は戦死した。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康(徳川家康)のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。5月19日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日、大樹寺に入った。ほどなくして今川軍は岡崎城を退去。23日、元康は「捨城ならば拾はん」と言って岡崎城に入城し、自立への第一歩を踏み出した[11][12][13][14]

確実な記録は存在しないが、5月20日に松平元康が手勢18名とともに寺に入ったときのことで、以下の逸話が大樹寺で代々言い伝えられている。今川軍に寺を囲まれ、追撃に絶望した元康が先祖の松平家の墓前で自害を決意すると、第13代住職登誉天室は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて元康を諭し、切腹を思いとどまらせたと言われている[15][16][17][注 2]。登誉は約500人の僧侶を集めて武器を取らせ、「厭離穢土欣求浄土」と大書した旗を立てて敵に対処したとも言われている[15]

さらに伝承では「家康は以後、戦陣には必ず『厭離穢土欣求浄土』の旗指物を使った」とされているが、これについても確実な記録は存在しない[15][注 3]。また、桶狭間の戦いの直後、三河へ撤退する松平勢に対し、織田勢が追撃戦を行ったとの記録を有する資料も存在しない。近年では、岡崎城への帰還は織田勢の追撃戦に備えるために今川氏の許しを得たものであったとする説もある[19]
江戸期以降元和3年(1617年)に再興された松平八代墓(まつだいらはちだいのはか)[20][21]

慶長7年(1602年)、勅願寺となる。

慶長17年(1612年)1月7日、徳川家康は、三河吉良で狩りをするとして駿府城を発した。14日から数日、吉良で鷹狩に明け暮れたあと、20日に岡崎城に入った。26日、家康は大樹寺に参拝。法要のあと銀50枚を寄せ、さらに松應寺に詣でてて法要を営み、同様に銀50枚を布施した。27日には名古屋城に赴き石垣や堀の工事の指揮をして、29日に岡崎へ帰り、2月2日に岡崎を発ち、2月6日に駿府城に戻った[22]

元和元年(1615年)、家康は墓所の再興を命じた[21]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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