凡例大槻 磐渓
JR一ノ関駅前の大槻三賢人像
正面向かって左側の大槻磐渓
時代江戸時代後期 - 明治時代初期
生誕享和元年5月15日(1801年6月25日)
死没明治11年(1878年6月13日、享年78)
改名六二郎・平次郎・平次・磐渓・磐翁
戒名尚文院愛古磐叟居士
墓所東禅寺
官位贈従五位
主君伊達慶邦
藩仙台藩西洋砲術指南取扱
藩校養賢堂学頭
藩主学問相手近習格 等
氏族江戸大槻家
父母父:大槻玄沢 継母:タホ
兄弟磐里
大槻 磐渓(おおつき ばんけい、享和元年5月15日(1801年6月25日) - 明治11年(1878年)6月13日)は、日本の幕末から明治初頭にかけて活躍した仙台藩士、儒者、漢学者[1]。文章家としても名高い。名は清崇。
仙台藩の藩校、養賢堂学頭であった磐渓は、幕末期の仙台藩論客として奥羽越列藩同盟の結成に走り、戊辰戦争後は戦犯として謹慎幽閉された。
父は蘭学者の大槻玄沢。子に大槻如電と大槻文彦(国語学者で『言海』編者)がいる。親戚に養賢堂の学頭の大槻平泉がいる。 1801年(享和元年)6月25日、江戸木挽町の幕臣浦上氏の邸内で生まれる[2]。父の大槻玄沢は、六番目の次男であったことから六二郎と名付けた。3歳の頃、母が麻疹で没しているが、のち後妻タホの手で育てられた。1816年(文化13年)、元服して平次郎と称する。 この頃、父の玄沢とその蘭学仲間・桂川甫周が雑談中、蘭学を盛んにするために玄沢が訳した蘭語(オランダ語)を、当時の学術用語である漢文体の文章に翻訳させるため、磐渓を漢学者として育てようと話し合ったというエピソードがある。実際に磐渓は、漢学者としての道をたどることになる。 また、父の玄沢の医学の師匠の建部清庵に跡継ぎがなく、玄沢に磐渓を養子に欲しいと頼んだことがある。玄沢はこの話をするため息子を呼んだところ、磐渓は頑なにこれを拒んだ。師匠家の頼みであるため、玄沢は説得を続けたが磐渓は結局折れず、後に玄沢は「あれはなかなか見所がある」とうれし泣きしたという[3]。 磐渓の本格的な学問修業は、1816年、16歳の頃昌平坂学問所(昌平黌)で大学頭を務める林述斎の林家に入門したことから始まる。ここで磐渓は高弟の葛西因是
生涯
生い立ち
学問修業現在は泰心院の山門として移築された養賢堂正門
磐渓はここで学び、幕末には学頭を務めることになる
1818年春、父の弟子・佐々木中沢を伴って、初めて郷里の仙台藩磐井郡中里村へ帰郷し、一族の大槻平泉や、仙台藩の藩校・養賢堂を訪ねている。また江戸から大槻家を訪ねていた松崎慊堂とここで初対面を果たした[4]。
22歳の頃、仙台藩校の養賢堂に入る。ここで学頭を務める親族の大槻平泉に抜擢され、指南役見習となった。しかしこの職は普通30、40歳程度の学者が就く職であり、これを行き過ぎとみた父玄沢の意見により、翌1823年、磐渓は江戸の昌平黌に戻った。ところが翌1824年にはまた養賢堂へ戻っている。このころの学友に安井息軒がいる。 このように、郷里の東北には縁があったものの、箱根山を越えたことがなかった磐渓は、1827年、27歳の頃、父の取り組む蘭学の修業を念頭に、関西・九州を経て長崎への遊学を決意した。この旅程が、彼の旅日記『西遊紀程』にまとめられている。この旅程で磐渓は多くの学者達の教えを受けながら長崎へと向かったが、当時一介の書生であった磐渓が高名な学者たちと対面できたのには、有名な蘭学者・大槻玄沢の息子であったという要因も無視できない。 3月27日、京都での頼山陽との出会いは特筆に値する。ここで磐渓の漢文を見た山陽は、磐渓に「後来有望なり」との評価を与え、酒杯を共にすることを望んだ[5]。ここで頼山陽は、完成間近の『日本外史』の原稿を磐渓に見せた。しかし酔った磐渓は、あろうことか大学者である頼の原稿に対して批評を始めてしまい、頼の一喝をくらってしまう。
関西遊学