大槻玄梁
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大槻 玄梁(おおつき げんりょう、1722年享保7年) - ?)は江戸時代の医師である。
生涯

陸奥国磐井郡赤荻村(現・岩手県一関市)に生まれた。幼いころに父茂性は亡くなり、大肝入は姉婿の清慶が継いでいたので、身を立てる手段として医師を志したと推測[1]される。

一関で建部清庵、仙台で松井先生に師事し、中里村に戻り、千葉玄良と名乗りオランダ流外科を開業した。

1765年(明和2年)に一関藩の五人扶持藩医となり、大槻玄梁と名を改めた。

建部清庵の『民間備荒録』の校正者に名を連ねる[1]
大槻宗家

「西の、東の大槻」、江戸時代後期の儒学者松崎慊堂が広島の頼家と大槻家が並ぶ一族であると称えた。大槻家は葛西氏の一族の寺崎氏の末裔といわれ、戦国時代末期に(一関市金沢)飯倉に居館を作った泰常を初代とする。居館内に槻(けやき)の大木があったので大槻姓を名乗った。泰常は葛西氏再興を目指し兵を起こすが伊達政宗に敗れ戦死した。その子、常範は赤荻村に逃れ土着した。4代茂慶にとき磐井郡西岩井の大肝入となり中里村に移り住んだ[1]。幕末まで大肝入を世襲し、大槻宗家と呼ばれる。

玄梁の子孫は、学者の家系として知られ、仙台藩、一関藩の頭脳と言われた。子の玄沢の家は江戸に分家し江戸大槻家と呼ばれる。宗家9代清雄の子平泉は仙台に分家し、仙台大槻家と呼ばれる。
家系図

(参考[2]

江戸大槻家仙台大槻家大槻宗家

                大槻茂性(6代)[3]

                     
            
      大槻玄梁       大槻清慶(7代)

                     

      大槻玄沢       大槻清雄(9代)

                        
            
    大槻磐渓 大槻磐里 大槻平泉 大槻清臣(10代)

                           
          
中村英麻呂 大槻文彦 大槻如電 大槻習斎 大槻清廉(11代) 佐々木中沢(娘婿)

                       

中村勝麻呂 幸     大槻清良 大槻清裕(12代)
  
                       
          
中村英勝 中村妙子 静 中野好夫 大槻清俊(13代)
  

大槻家関係資料

一関市が保有する大槻家の資料、国指定重要文化財(美術工芸品・歴史資料の部 2023年(令和5年)6月27日指定)[4]

重要文化財指定物件 名称「大槻家関係資料」(4,048点)(内訳:著述稿本類 415点、文書・記録類 2,859点、書画類 222点、典籍類 190点、器物類 195点、写真類 167点)


他に早稲田大学所蔵の大槻玄沢関係資料(重要文化財 105部、169点、大槻家旧蔵)がある[5]
脚注[脚注の使い方]^ a b c 『GENTAKU』一関市博物館(2007年)
^ 『ダ・ダ・スコ』p25-29
^ 宗家の代数:『GENTAKU』一関市博物館(2007年)
^ 一関市公式HP 大槻家関係資料が国の重要文化財に指定されました
^ 早稲田大学図書館の貴重図書(1)大槻家の資料が早稲田大学図書館に入ったのは昭和28年(1953)のことである。これらは岡村および元教授勝俣鐙吉郎のコレクションなどを合わせ,「洋学文庫」(図書記号:文庫8)として整理されたが,平成6年(1994),大槻玄沢関係資料のみ一括として重要文化財に指定された。

外部リンク

一関市博物館
:玄沢、文彦を中心とした大槻家に関する展示がある。


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