大槻文彦
人物情報
別名清復(諱)
復三郎(通称)
復軒(号)
生誕弘化4年11月15日( (1847-12-22) 1847年12月22日)
武蔵国江戸木挽町
死没 (1928-02-17) 1928年2月17日(80歳没)
大日本帝国、東京府
肺炎
国籍 大日本帝国
出身校大学南校
両親父:大槻磐渓
学問
時代明治・大正・昭和
研究分野日本語学
研究機関明六社
洋々社
帝国学士院
宮城師範学校
宮城県尋常中学校
国語調査委員会
学位文学博士
主な業績近代的国語辞典の嚆矢となる編纂法の完成
規範となる日本語文典の完成
口語研究の可能性を開拓
主要な作品『言海』
『広日本文典』
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大槻 文彦(おおつき ふみひこ、弘化4年11月15日(1847年12月22日) - 1928年(昭和3年)2月17日)は、日本の国語学者。明六社会員。帝国学士院会員。実名は清復(きよまた)、通称は復三郎(ふくさぶろう)、号は復軒(ふくけん)。
人物大槻文彦の胸像
(宮城県仙台第一高等学校)
日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として著名で、宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘したことでも有名である[要出典]。
経歴一ノ関駅前の大槻三賢人像(文彦は左側)
儒学者・大槻磐渓の三男として江戸木挽町に生まれる。兄に漢学者の大槻如電、祖父に蘭学者の大槻玄沢がいる。幕末には鳥羽・伏見の戦いにも参戦、また仙台藩の密偵として江戸に潜伏、情報収集にも当った[注 1]。戊辰戦争後に旧幕府側に付き奥羽越列藩同盟を提唱した父の磐渓が戦犯となった際には、兄の如電とともに助命運動に奔走した[1]。
開成所、仙台藩校養賢堂で英学や数学、蘭学を修める。1867年には、英国人牧師マイケル・ベイリーが創刊した『万国新聞紙
』の記者、編集員を務めた[2]。その後、大学南校で英学を学んだ後、1872年に文部省に入省。1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。自費出版を条件に文部省から原稿が払い下げられた[3]。