大極殿
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中国の「太極殿」とは異なります。
平城宮 第1次大極殿(復元)平安京の大極殿跡(京都府京都市千本丸太町北西の児童公園内。

大極殿(だいごくでん)は、古代の日本における朝廷正殿
概要

宮城大内裏)の朝堂院の北端中央にあり、殿内には高御座が据えられ、即位の大礼や国家的儀式が行われた。中国の道教では天皇大帝の居所をいう。「大極殿」の名は、万物の根源、天空の中心を意味する「太極」に由来する。ゆえに中国においては太極殿といい都城内の建物に起源をもち,三国時代の明帝青竜3年(235)、「北魏洛陽城」において太極殿が初めてであるとされるため、大極殿を「だいぎょくでん」とも読む。すなわち、帝王が世界を支配する中心こそ「大極殿」の意である[1]

日本最初の大極殿が置かれた宮殿については、飛鳥浄御原宮説(福山敏男・小澤毅・渡辺晃宏ら)[2]藤原宮説(狩野久・鬼頭清明ら)[3]に分かれている。
原型小墾田宮推定見取図

大極殿の原型は、飛鳥小墾田宮の「大殿」にあったと考えられる。小墾田宮は、推古天皇の時代、それまでの豊浦宮にかわって603年(推古11年)に造営されたである。『日本書紀』の記述によれば、この宮は、南に宮の正門である「南門」(宮門)を構え、その北に諸大夫の勤める「庁(まつりごとどの)」が左右に並び、その間の中央広場としてオープンスペースの「朝庭」があり、さらにその北中央に「大門」(閤門)、その奥に推古女帝の出御する「大殿」がひかえるという構造であったことが示されている。

このような宮の構造は、608年(推古16年)にの使節裴世清611年(推古19年)の新羅使任那使の来朝に関する『日本書紀』の記載からうかがわれる。なお、「庁」はのちの朝堂の起源となった建物と考えられる。

吉村武彦によれば、小墾田宮は「単純な構造ながら、のちの藤原宮や平城宮にみられるような、都宮の基本構造の原型として考え」[4]られる。ただし、「大殿」や「庁」、「朝庭」の遺構は検出されていないので、その規模等については不明である。

乙巳の変後、天智天皇孝徳天皇らによって650年白雉元年)に造営のはじまった難波長柄豊碕宮は、難波宮跡発掘調査の結果、前期難波宮跡がそれに相当するとの見方が確実である。北に天皇の居所である内裏があり、そのうち前殿がのちの大極殿に相当する殿舎である。内裏前殿をふくむ内裏空間と官人の出仕する朝堂・朝庭の空間の境には内裏南門があり、この門は桁行7間、梁行2間(32.7×12.3メートル)で平城宮の朱雀門をしのぐ規模である。内裏南門の東西入口には、他に例をみない遺構「八角殿院」があり、鐘楼のような施設の存在が考えられる。「天子南面」の思想により、内裏の南には朝堂・朝庭の区域があり、その規模は東西233.4メートル、南北263.2メートルにおよぶ。そこでは、少なくとも計14堂の朝堂(庁)があったことを確認しており、藤原宮や平安宮の12堂を上まわる。この宮に特徴的なのは、朝庭の広さであり、空前絶後の規模といってよい。また、すべての建物が掘立柱建物であり、はまだ使用されていなかった。
変遷
飛鳥浄御原宮「エビノコ大殿」

『日本書紀』には、681年(天武10年)2月、天武天皇と皇后(のちの持統天皇)は諸臣を「大極殿」に召し、飛鳥浄御原令の制定を指示したという記事がある。ここで「大極殿」という殿舎の名があることに注目するのが、冒頭に掲げた福田・小澤・渡辺らである[5]

飛鳥浄御原宮の所在地は、近年の調査成果では、飛鳥京跡の上層遺構をあてるのが通説となっており、浄御原宮は、後飛鳥岡本宮の内郭に東南郭を加えて完成したとされている。東南郭は所在する字名より通称「エビノコ郭」と呼ばれる一郭であり、そのなかから大規模な正殿の跡を発見している。これが通称「エビノコ大殿」である。渡辺晃宏は、この大殿こそ、『日本書紀』記載の大極殿の可能性が高いとしている[5]

なお、飛鳥京跡上層遺構からは「前殿」と称される東西建物跡2棟が検出されており、これが飛鳥浄御原宮にともなう朝堂相当施設ではないかとされている。ただし、「エビノコ郭」南側には飛鳥川が間近に迫っていることから、広大な朝庭を確保することは困難であったろうと考えられる[6]
藤原宮の大極殿

規模や内部の殿堂配置の明確な宮城としては、条坊制の採られた初の本格的都城として建設された新益京(藤原京)の藤原宮が最古である。藤原宮は、周辺京域の建設が進められたあと、北の耳成山、西の畝傍山、東の天香具山のいわゆる「大和三山」のなかに造営され、694年(持統8年)に正式に遷された宮である。発掘調査によれば、藤原宮造営は天武天皇の時代に着手されており、その造営にあたっては、南北大溝や条坊にともなう側溝が埋め立てられたのちに大極殿院の北面回廊が建設されていることから、藤原宮の大極殿造営以前に条坊道路が造成されていることが判明している[7]

藤原宮の大極殿は大極殿院の一郭のほぼ中央に位置している。また、大極殿院の南面にあって太政官院(のちの朝堂院)との境界をなす門(大極殿閤門(こうもん))は、藤原宮のちょうど中心に位置する。藤原宮は新益京(藤原京)のほぼ中央に位置することから、大極殿閤門は京域全体からみてその中心にあたる。ここに『周礼』考工記など漢籍にみえる都城のあるべき姿にもとづいて設計された「理念先行型の都城」をみることができる[8]

いずれにせよ、朝堂院(太政官院)の正殿としての大極殿が藤原宮をもって成立した点については、飛鳥浄御原宮説に立つ研究者も共通の認識に立っており、小澤毅も、原則としては、天皇の独占的な空間としての大極殿およびそれを取り囲む一郭は藤原宮において成立したとしている[8]

なお、天武・持統の代にあっても辺境の民を飛鳥寺の西の広場で饗応していたことが『日本書紀』より明らかであるが、文武朝にあってようやく、藤原宮の大極殿や太政官院へ移動したものと考えられる[9]
平城京・恭仁京の大極殿平城宮第一次大極殿院復元模型
(平城宮跡資料館)
他の宮には見られない広い前庭を持つ。山城国分寺(恭仁京)復元模型。築地に囲まれているのが金堂(大極殿)。右が七重塔。京都府立山城郷土資料館

恭仁京(くにきょう)遷都までの大極殿を第一次大極殿、奈良に都が戻ってからの大極殿を第二次大極殿という。第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真北に位置し、第二次大極殿は平城宮東寄りの壬生門北に位置している。第二次大極殿跡は近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残っていた。この命名は、平城京遷都当初は朱雀門北の地域に大極殿が設けられたものの、恭仁京大極殿の規模と一致するところから745年天平15年)に壬生門北に移動したものと考えられたためであったが、第二次大極殿跡の下層から掘立柱建物の遺構が検出され、それが大極殿・朝堂院と同じ建物配置をとることから、結局、奈良時代の前半には朱雀門北の広大な前庭をもち朝堂2堂をともなう第一次大極殿(中央の大極殿)と壬生門北の朝堂12堂よりなる太政官院のさらに北にある内裏南面の大極殿(東側の大極殿)の2棟あることがわかった。

中央の第一次大極殿の周囲は築地回廊で囲まれ、南の朝堂区域とつながる「閤門」があった。この区域は「大極殿院」と呼ばれる。広い前庭をともない、前庭から1段高い位置に大極殿が建設されているが、これは平安宮の龍尾壇(竜尾壇 りゅうびだん)の原型と考えられる。正月元日には大極殿前庭に七本の宝幢(ほうどう)が立てられ諸臣の朝賀が行われた。他に、即位式や外国使節謁見などの朝儀の空間として使用されていたと考えられる[10]元正天皇聖武天皇の即位も大極殿院でおこなわれている。

それに対し、第二次大極殿下層の東側大極殿は、日常の朝政にあたる空間だったと考えられ、このような機能分化は、長安城太極宮太極殿と大明宮含元殿の影響を受けたものと指摘される[10]


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