大森実
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おおもり みのる
大森 実
生誕 (1922-01-13)
1922年1月13日
日本 兵庫県神戸市[1]
死没 (2010-03-25) 2010年3月25日(88歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州ミッションビエホ[1]
出身校旧制兵庫県立神戸経済専門学校
職業ジャーナリスト
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大森 実(おおもり みのる、1922年1月13日 - 2010年3月25日〈日本時間3月26日〉)は日本のジャーナリスト兵庫県神戸市出身[1]

作家の柴田錬三郎は従兄弟[2]
略歴

旧制
兵庫県立神戸経済専門学校(現・兵庫県立大学経済学部経営学部)卒[1]

1942年、日本窒素に入社[3]

1945年毎日新聞社大阪本社に入社[1][4]

大阪本社社会部を経て、1954年から1962年までワシントン特派員、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長を歴任。

帰国後の1962年に東京本社外信部長に就任。

1966年に退社し[1][4]、大森国際研究所を設立。

1967年に創刊した週刊新聞「東京オブザーバー」紙を1970年に休刊した[3]

1974年カリフォルニア州に移住する[3]カリフォルニア大学アーバイン校の常任理事と歴史文学部教授を勤めた。

2010年3月25日、肺炎のため死去[1][4]。88歳没。

人物

1949年毎日新聞大阪本社に岡山県の浮浪者収容施設「岡田更生館」で収容者が多数虐待死させられているという情報が、同施設の脱走者からもたらされた。社会部記者であった大森は県警の協力を得て同僚と共に浮浪者に変装し、潜入取材を敢行。6畳ほどの部屋に15名が折り重なるようにして寝起きするという劣悪な環境下で結核と疥癬が蔓延し、食事もろくに与えられず、飢餓状態に置かれている凄惨な状況を目にする。収容者の中から選ばれて昇格した指導員の暴力が常態化し、脱走を試みた者は激しい私刑に遭うなどして70名以上の死者が出ていたが、遺体は裏山で密かに火葬されていた。大森のこの恐るべきスクープを、同年2月18日付毎日新聞朝刊紙面に載せ、衆参両院の厚生委員会で議題に採り上げられる等、大きな反響を呼んだ。岡田更生館は県営の優良施設とされていたが、実際は収容者を養うための公金を施設長らが横領し、発覚を恐れて収容者を厳しく監禁していたのである[5]

1954年から海外特派員に赴任、ワシントン特派員、ニューヨーク支局長、ワシントン支局長を歴任。国際報道畑を歩む。1965年毎日新聞東京本社外信部長として特派員団を組織・派遣し、ベトナム戦争の現地取材にあたらせた[6]。これは後に『泥と炎のインドシナ』として単行本となる[6]。大森自身も同年秋に西側記者として初めて北ベトナム(当時)の首都ハノイに入り、取材をおこなった[6]。その中で、1965年10月3日朝刊に「米軍が北ベトナム・クインラップのハンセン病病院を爆撃したことは、北ベトナムの撮影した記録フィルムから見て事実だ」とする記事が掲載された。これに対して駐日アメリカ大使のエドウィン・O・ライシャワーが「全く事実に反する内容」と大森を名指しで批判する事態に発展した。毎日新聞側は当初「報道は正確である」と主張したが、大森は翌年1月に、同紙の姿勢について「自分の報道を事実上修整した」として退職した[1][7][注 1]

退社独立後、大森国際研究所から週刊新聞『TOKYO OBSERVER』を創刊し、1967年2月12日号から1970年3月1日号(第159号)まで刊行[8]。1968年11月24日号では、秘密裏に沖縄へ配備されていた核爆弾搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」の存在をスクープするなど、最盛期は15万部近く刷っていた[9]。1974年にはアメリカへ移住。主に米国から見た日本のスタンスに警鐘を鳴らし、多くのテレビ出演や著書を上梓した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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