大條(大枝)氏
沢瀉
本姓藤原北家山蔭流
家祖大條宗行
種別武家
出身地陸奥国伊達郡東大枝
主な根拠地陸奥国伊達郡東大枝
陸奥国亘理郡坂元
陸奥国伊具郡尾山
著名な人物大條宗直
大條実頼
大條氏(おおえだし)は、陸奥国の大名・伊達氏の庶流。もとは大枝と表記した。
概要)を築き、大枝氏を称した(この頃西大枝には既に伊達家臣・伊藤(西大條)氏が地頭として配置されていた)。
大枝氏は『天正伊達日記』には「大枝殿」と敬称付きで記載されており、また文明15年(1483年)の伊達成宗の上洛に随伴して金銭・刀剣を将軍・幕閣に献上するなど、家中でも高い地位を占めていた。
第7代・宗直のとき、天正19年(1591年)に葛西大崎一揆後の再仕置で伊達政宗が岩出山城へ減転封され伊達郡を没収されると、宗直も伊具郡大蔵に移され、文禄2年(1593年)にはさらに志田郡蟻ヶ袋へと移された。本領を離れて以後、それまでの大枝表記に代わって大條(大条)表記が用いられるようになり、今日に至っている。
関ヶ原の戦いの後、宗直は政宗による岩崎一揆煽動により緊張が高まっていた盛岡藩境への抑えとして、慶長9年(1604年)には気仙郡長部の二日市城主となり、中島宗求と共に藩境沿岸部の守りを固めた。宗直の子・宗綱は慶長18年(1613年)に長部から磐井郡大原へ移され、ついで元和2年(1616年)に知行2,000石を以て亘理郡坂元城主となった。大條氏本家はのち4,000石まで加増され、以後幕末に至るまで同地を治めた。
最後の坂元城主であった第17代当主・道徳は明治に伊達姓に復し、名を伊達宗亮に改めている(ただし復姓したのは坂元の大條本家のみ)。
坂元大條氏の所領
※特記なきものは全て相給 大條氏分家のうち重臣としての家格を与えられたのは、宗家の二男・実頼
亘理郡:3か村(坂元・真庭・高瀬)
刈田郡:1か村(永野)
柴田郡:2か村(小泉・四日市場)
加美郡:1か村(小野田)
志田郡:1か村(福沼)
遠田郡:3か村(北浦・関根・上埣)
桃生郡:1か村(鹿又)
牡鹿郡:1か村(真野)
分家
宗家の二男・実頼は、彦姫付きとして蘆名氏に属していたが、天正16年(1588年)に彦姫が死去すると伊達家に帰参。その後は伊達政宗に重用され、仙台藩が成立すると奉行職(他藩の家老に相当)を拝命して伊具郡丸森城主となった。その家系は着坐の家格を与えられ、のちに伊具郡尾山(現:角田市尾山)に移されて601石を知行した。
宗道の養子・頼恭(実頼の三男・頼広の曽孫)は、坂元の大條本家の跡取りとなる予定であったが、宗道の実子・道頼が家督を継いだため、坂元領のうち亘理郡真庭(現:山元町真庭)などに300石を内分されて別家を興し、召出の家格を与えられた。
歴代当主
本家(坂元大條氏)
大條宗行
大條宗景
大條宗元
大條宗澄
大條宗助(稙景)
大條宗家 - 留守景宗の三男(伊達尚宗の孫)
大條宗直
大條宗綱
大條宗頼 - 大條実頼の四男
大條宗快
大條宗道
大條道頼
大條道任
大條道英
大條道直
大條道
大條道徳(伊達宗亮) - 伊達に復姓
伊達宗康 - 亘理郡坂元村第6代村長(1937?1941)
伊達宗雄
伊達宗行
尾山大條氏
大條実頼
大條修理元頼
大條定頼
大條直頼
大條茂頼
大條易頼 - 佐藤易信の子
大條繁頼
大條木工元頼
大條多頼
大條度頼
大條蔭頼
大條長頼 - 明治維新後は「徹」
大條正男
系図
実線は実子、点線は養子。
a1
[坂元大條氏]
宗綱8
宗頼9頼広大窪元成修理元頼a2
宗快10林頼定頼a3
宗経宗道11宮内透清頼常直頼a4茂頼a5
宗透道頼12[真庭大條氏]
頼恭b1易頼a6
実寿道任13頼純b2繁頼木工元頼a7
道英14頼寿b3多頼a8
道直15道16度頼a9
道徳17
(伊達宗亮)蔭頼a10
宗康18亮治
宗雄19忠亮
宗行20政亮
幹生(みきお)[1] 熊谷麻衣子某
さゆり[2]
脚注^ 『週刊朝日』2013年3月29日号、111頁
^ “声優・伊達さゆり、サンド伊達の“めい”初告白 「さゆ」「みーくん」呼びも判明”. 毎日新聞(ORICON NEWS) (株式会社毎日新聞社). (2024年3月23日). https://mainichi.jp/articles/20240323/orc/00m/200/074000c 2024年3月23日閲覧。
参考文献
『梁川町史』第1巻(福島県伊達郡梁川町、1994年)
『山元町誌』(宮城県亘理郡山元町、1971年)
『角田市史』2(宮城県角田市、1986年)