大松尚逸
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大松 尚逸東京ヤクルトスワローズ 打撃チーフコーチ #78
千葉ロッテマリーンズ時代(2012年)
基本情報
国籍 日本
出身地石川県金沢市
生年月日 (1982-06-16) 1982年6月16日(41歳)
身長
体重184 cm
93 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション外野手一塁手
プロ入り2004年 ドラフト5巡目
初出場2005年7月12日
最終出場2017年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


金沢高等学校

東海大学

千葉ロッテマリーンズ (2005 - 2016)

東京ヤクルトスワローズ (2017 - 2018)

福井ミラクルエレファンツ (2019)

コーチ歴


東京ヤクルトスワローズ (2020 - )

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

大松 尚逸(おおまつ しょういつ、1982年6月16日 - )は、石川県金沢市出身の元プロ野球選手外野手内野手)。左投左打。2020年シーズンから、東京ヤクルトスワローズでコーチを務める。
来歴・人物ロッテ時代の2011年8月6日、QVCマリンフィールドにて
プロ入り前

三馬小3年から三馬クラブで投手として野球を始める。家族は父と兄。中学時は高尾台中陸上部に在籍しながらシニアリーグ・金沢シニアに所属し、キャプテンでエースだった。高校に入りポジションが外野へ変更。肉体改造し当時の石川屈指のスラッガーになった。

金沢高等学校への進学後は、1年時からレギュラーの座を確保したが、春夏とも阪神甲子園球場での全国大会には出場できなかった。

東海大学への進学後は、首都大学野球のリーグ戦に通算88試合出場。打率.288(288打数83安打)、10本塁打、56打点という成績を残すとともに、外野手としてベストナインに3回選ばれた。4年時の2004年には、大学日本代表の主将へ抜擢されると、日米大学野球でMVPを獲得している。

2004年のプロ野球ドラフト会議で、千葉ロッテマリーンズから5巡目で指名を受け、契約金8000万円、年俸1200万円(金額は推定)という条件で入団した。背番号は10。
ロッテ時代

2005年(1年目)、二軍で4番に定着。同じく新人の竹原直隆と共に二軍の快進撃に貢献した。二軍で打率.288、14本塁打(イースタン・リーグ3位)、55打点(同3位)と活躍し、阪神タイガースと行われたファーム日本選手権では逆転本塁打を放つなど、二軍の日本一に大きく貢献した。7月12日に一軍初出場、17日に初安打を記録。

2006年、4月15日に一軍に昇格し、対西武ライオンズ戦に1番・右翼手で即先発出場すると、7回に西口文也からプロ初本塁打となる逆転満塁本塁打を放った。また5月26日には2度目の4番出場でジェレミー・パウエルから決勝3点本塁打を放ちチーム屈指の巨人キラーと名を馳せた。打率は.217と低かったが8本塁打・31打点と非凡な長打力をアピールした。二軍では少ない試合数ながら打率.364を打った。

2007年能登半島地震が起こった際、石川県出身であることから100万円の義援金を送った。規定打席未満ながらプロ入り初の一軍での打率3割を記録、5本塁打、長打率.437を記録した。

2008年、主に5番打者として起用され、一軍で初めて規定打席に到達、24本塁打、91打点と大きく数字を伸ばした。特に満塁では3HRを含む打率.571と勝負強さを見せた。一方、打率は.262と前年より数字を落とし、特に2ストライク後の打率が.187と課題も残した。また、この年は本拠地での試合に強い(打率.303、13HR、58打点)が、反面敵地での試合を苦手にしていた傾向があり、特に札幌ドーム京セラドームでは48打数5安打、打率.104、1HRと徹底的に抑え込まれていた。オールスターゲームに、柴原洋の欠場による補充選手として出場。第2戦では2本塁打を放つなど活躍し、ベストプレー賞を受賞した。7月は球団の日本人選手最多月間打点(31打点)を記録し、初の月間MVPを受賞した。

2009年、序盤には4月終了時点で打率.093と打撃不振に陥ったが、徐々に復調し4番打者に定着。打率.269 19本塁打 79打点を挙げた。6月11日の広島東洋カープ戦の6回裏、チームは国内最多記録となる1イニングに打者20人で15得点を挙げたが、この回だけで大松は3度打席に入った。1イニングで3度打席に入ったのはプロ野球史上初であり、この回先頭打者の福浦和也はイニング途中で代走として堀幸一と交代した関係で3打席を記録したのは大松一人だった。3打数1安打2打点1得点でアウトを2つ取られている。もう一つのアウトは田中雅彦の犠飛だったため、この回における進塁、得点に絡まない凡打は大松の2本のみであった。7月10日、対北海道日本ハムファイターズ戦でチームが多田野数人に無安打に抑えられる中、9回二死からライト前にヒットを放ち、ノーヒットノーランを阻止した。

2010年マッチデープログラムが改められた「Marines Magazine」でコラム「尚逸大松の秀逸な話」を担当。前半は5番打者として一時は打率が3割を超えるなど活躍したものの後半戦で大きく調子を落とし7、8番に降格。年間を通して出場したものの、最終的な打撃成績は前年より低くなった。CSファイナルステージ杉内俊哉から3ランを放つなど活躍。日本シリーズでは1戦目に先発出場し、第1打席で適時二塁打を放ったものの、その際に右太もも裏に軽い肉離れを起こし途中交代し、そのまま出番なくシーズンを終えた。

2011年、開幕戦は5番でスタメン出場したが不振に陥り、開幕3戦目で8番に降格、開幕4戦目では早くもスタメンを外れる。6月に若干調子を上げ4番での起用も増えるが7月に再び不振に陥り二軍落ち。その後は角中勝也やルーキーの伊志嶺翔大の台頭もありなかなか一軍に上がれず、終盤に一軍昇格したが、最終的には打率.215、本塁打2、打点16と一軍定着後自己最低の成績に終わった。なお、サブローの巨人移籍後は後任の選手会長に就任した。

2012年一塁手にコンバートされることとなり、春季キャンプにおいて臨時守備コーチとして招かれた駒田徳広から重点的に指導を受けた。開幕戦では7番一塁手として先発起用された。シーズンを通して一軍登録を外れることはなかったが、打撃成績は本塁打・打点こそ前年を上回るも打率は2割を切るなどシーズンを通して低調で、9月19日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦に代打で出場した際にはファンからブーイングが起こった[1]。また、登録は外野手のままではあったが外野手での出場は全くなかった。

2013年、球団から正式に内野手として登録することを発表された[2]。開幕を一軍で迎えたものの不調で4月5日に抹消された。その後再び一軍登録されると、自身の誕生日である6月16日の中日ドラゴンズ戦の7回裏、5-5の二死満塁の場面で適時打を放ちこれが決勝打となり、ヒーローインタビューでは顔面にクリームを塗られる手荒い祝福も受けた[3]井口資仁の一塁コンバート、クレイグ・ブラゼルの加入などもあり、再び外野手としての起用も増えたものの、終盤はG.G.佐藤の好調もあり出番はなく、ルーキーイヤー以来となる本塁打0に終わった。

2014年、4月9日のオリックス・バファローズ戦で567日ぶりの本塁打を放ち[4]、一時は腰痛の今江敏晃に代わり4番に座った。しかし5月以降は調子を落とし、一塁は前年同様井口が、左翼は新外国人のチャッド・ハフマンが起用されるようになったこともあり出場機会が限られ、打率は1割台に終わった。


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