大東文化大学
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}学校法人大東文化学園 > 大東文化大学.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:大東文化会館(東京都板橋区)、菅平セミナーハウス(長野県上田市)の画像提供をお願いします。(2009年8月)

大東文化大学

板橋キャンパス エントランスプラザ
大学設置1949年
創立1923年
学校種別私立
設置者学校法人大東文化学園
本部所在地東京都板橋区高島平1丁目9番1号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度46分55.7秒 東経139度40分4.6秒 / 北緯35.782139度 東経139.667944度 / 35.782139; 139.667944座標: 北緯35度46分55.7秒 東経139度40分4.6秒 / 北緯35.782139度 東経139.667944度 / 35.782139; 139.667944
キャンパス板橋(東京都板橋区)
東松山(埼玉県東松山市
緑山(埼玉県東松山市)
学部文学部
経済学部
外国語学部
法学部
国際関係学部
経営学部
スポーツ・健康科学部
社会学部
研究科文学研究科
経済学研究科
法学研究科
外国語学研究科
アジア地域研究科
経営学研究科
スポーツ・健康科学研究科
法務研究科(法科大学院)
ウェブサイトhttps://www.daito.ac.jp
テンプレートを表示

大東文化大学(だいとうぶんかだいがく、英語: Daito Bunka University)は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本私立大学1923年創立、1946年大学設置。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。
概観
大学全体

大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎(北海道厚岸町の帝国議会議員)による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。

2022年(令和4年)現在、8学部20学科・8研究科を設置している。
建学の精神

漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年昭和60年)に制定された。

そして、2008年平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。
教育の理念

大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。
教育および研究

8学部20学科・8研究科(大学院)からなる文系総合大学である。文学部日本文学科と中国文学科、経済学部は創立当時からの歴史と伝統を持つ[注釈 1]

書道教育には力を入れており、多くの書家や研究者を輩出している。1969年(昭和44年)4月に大東文化書道文化センター(後の書道研究所)を開設し、日本で唯一の書道専門機関となっている[1]

創立以来日本文学や漢文学をはじめとする東洋文化研究を柱に据えており、アジア・東洋重視の伝統は受け継がれている。2006年(平成18年)には、国際関係学部の「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に採択。

2005年(平成17年)より板橋キャンパス近くの高島平団地を活性化することを発端とした環境創造学部による地域貢献活動「高島平再生プロジェクト(後にみらいネット高島平)」を地域住民と行っている。平成19年(2007年)に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択。

自己点検・評価は1994年(平成6年)の「大東文化大学自己点検及び評価規程」制定以来取り組まれており、現在では学長を委員長とする「自己点検・評価基本事項検討委員会」と、その下に実務機関としての「全学委員会」を組織して行われている。

また、教育の質や授業内容を向上させることを目的とした授業評価アンケートや、ファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムも実施している。
沿革大東文化学院初代総長
平沼騏一郎大東文化学院第二代総長
井上哲次郎
略歴
大東文化学院の誕生と九段校舎時代
九段校舎(法政大学旧校舎)

大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した木下成太郎を中心とするメンバーの尽力により、1921年大正10年)3月18日、第44回帝国議会衆議院本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。漢学ハ古来我ガ邦ノ文化ニ貢献シ国民思想ノ涵養ニ資益セシ所大ナルモノアリ而シテ今後亦之ニ待ツ所少シトセス之カ振興ノ途ヲ講スルハ刻下ノ急務ナリトス依テ政府ハ之ニ関シ適当ノ方法ヲ施サレムコトヲ望ム
右建議ス ? 漢学振興ニ関スル建議案

その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。

この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。

再三に渡って行われた審議の結果、可決され1923年(大正12年)2月11日に「大東文化協会」が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」とされた趣旨に基づき[2]、大東文化学院(旧制専門学校)は文部省から設置認可を受けたが、関東大震災東京府東京市神田区錦町三丁目十番地の校舎予定地(旧東京工科学校の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、東京市麹町区富士見町六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、法政大学旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は平沼騏一郎、初代会頭は大木遠吉、初代副会頭は小川平吉江木千之。評議員の一人に渋沢栄一

大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、東京帝国大学京都帝国大学早稲田大学を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった[2]

教授陣には、第二代総長となる井上哲次郎哲学を担当したことをはじめ、法学鵜澤總明山岡萬之助漢学松平康國牧野謙次郎内田周平のほか、哲学者北ヤ吉論理心理学を講じている。また、平沼淑郎(平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:154 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef