大村巌
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大山巌」とは異なります。

大村 巌横浜DeNAベイスターズ 育成打撃コーチ #90
2023年3月7日、DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKAにて
基本情報
国籍 日本
出身地北海道稚内市
生年月日 (1969-05-31) 1969年5月31日(54歳)
身長
体重186 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手
プロ入り1987年 ドラフト6位
初出場1992年9月30日
最終出場2002年8月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


東海大学付属第四高等学校

ロッテオリオンズ
千葉ロッテマリーンズ
(1988 - 2003)

監督・コーチ歴


北海道日本ハムファイターズ (2006 - 2012)

横浜DeNAベイスターズ (2013 - 2015)

千葉ロッテマリーンズ (2016 - 2019)

横浜DeNAベイスターズ (2020 - )

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

大村 巌(おおむら いわお、1969年5月31日 - )は、北海道稚内市[1]出身の元プロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者評論家

愛称は同姓の大村崑にちなんだ「コンちゃん」[2]
来歴・人物

東海大四高校2年時の1986年に、夏の甲子園(第68回大会)にエース兼五番打者として出場し、尽誠学園高校香川県代表)の伊良部秀輝(元千葉ロッテマリーンズ等)から本塁打を放ち注目される[1]1987年秋のプロ野球ドラフト会議にてロッテオリオンズに6位で指名された(この時のドラフト1位は上述の伊良部)[1]投手として入団したが、すぐに打者に転向した。

1989年フレッシュオールスターゲームで2安打を放ち最優秀選手に選出された際に、賞金の使い道を問われ、「すべてバット代」と答えるほどの練習熱心な選手だった[1]

1995年は1A・バイセイリア・オークスに野球留学した。

二軍生活が長かったが、1995年頃から一軍出場が増え95 - 99年ごろまでは準レギュラー的な位置を確保する。

1999年にはクリーンナップを務め打率.276、本塁打13、打点52を記録。だがその後は突発性難聴やケガに苦しんだ。

2003年のシーズン終了後に現役を引退した[1]

現役時代は童謡ゆかいな牧場』をもじった独特の応援歌で人気があった。解説者時代に応援歌の歌詞に因んだ「イワイワオー」という文字が題名に含まれたコラムをロッテ公式サイトに書いていた(ただし、本人がその題名を希望したかは不明)。

イラストが得意であり、様々な選手のイラストを描いた所、描かれた選手からも好評を博し、「大村巌画伯」と呼ばれていた。後に球団からも大村巌画伯Tシャツが発売された。

2013年に発売されたスポーツライター赤坂英一の著書『プロ野球 コンバート論』(PHP研究所、2013年5月11日初版発行、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 9784569811932)では、大村視点で糸井嘉男のコンバートの時の様子が描かれている。
現役引退後

引退後は千葉テレビ放送マリーンズナイター」・J SPORTS STADIUM解説者(2004年 - 2005年)を経て、2006年北海道日本ハムファイターズの二軍打撃コーチに就任。

2009年から2010年には一軍打撃コーチを務め、前年リーグ最下位だったチーム打率、得点を2009年はリーグトップにし同年のリーグ優勝に貢献した。

2011年から2012年までは再び二軍打撃コーチを務めた。日本ハムコーチ時代は糸井嘉男[3][4]中田翔[5]を育てた。糸井は「大村巌打撃コーチは鬼コーチだから。でも、俺にイチからバッティングを叩き込んでくれた方で本当にお世話になった。筒香がセ・リーグを代表するスラッガーに成長することができたのも、大村コーチが一役買っていると思う」「帰りに書店に寄られて、子犬の正しい飼い方みたいな本を読んで、次の日から僕めっちゃ褒められるようになった」と述べている[6]。また、筒香本人も「大村コーチと横須賀できっちり練習をしたことが、今の結果につながっていると思います。」と語っている[7]

2013年横浜DeNAベイスターズの二軍打撃コーチを、2014年は二軍監督兼打撃コーチを、2015年は一軍打撃コーチを務め、同年10月4日に辞任した[8]

2016年からは、古巣・ロッテの二軍打撃コーチを務めた[9]2019年は一軍打撃コーチを務め[10]、同年10月4日、自らの申し出により退団した[11]

2020年からはDeNAに復帰し、二軍打撃コーチを担当。2022年まで同コーチを務め、2023年からは新設された育成部門の、育成打撃コーチを務める[12]
詳細情報
年度別打撃成績



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