大村崑
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有村昆」とは別人です。

おおむら こん
大村 崑
オロナミンCの看板
本名岡村 睦治(おかむら むつじ)
別名義崑ちゃん(こんちゃん)
生年月日 (1931-11-01) 1931年11月1日(92歳)
出生地 日本兵庫県神戸市長田区東尻池町
血液型O型
職業コメディアン俳優喜劇俳優タレント
活動期間昭和30年代 -
配偶者あり
事務所プロジェクト・コア
公式サイトhttps://p-koa.com/?talents=大村崑
主な作品
テレビドラマ
やりくりアパート
番頭はんと丁稚どん
頓馬天狗
細うで繁盛記
赤い霊柩車シリーズ』情報番組など
午後は○○おもいッきりテレビ
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オロナミンC ホーロー看板丹波篠山市

大村 崑(おおむら こん、本名:岡村 睦治(おかむら むつじ)、1931年昭和6年〉11月1日 - )は、日本コメディアン俳優タレント兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。大阪府箕面市在住。血液型はO型。

昭和30年代を中心としたテレビ黎明期の軽演劇で爆発的な人気を得て、「崑ちゃん」の愛称で広く大衆に親しまれた。
来歴

兵庫県神戸市長田区東尻池町出身。4人兄妹(弟1人・妹2人)の長男として生まれる。神戸市立第一機械工業学校(現・神戸市立科学技術高校)卒業後、神戸のキャバレー「新世紀」のボーイなどの仕事をしていたが、20歳前に肺結核に罹り右肺を切除、医師からは「あなたは40歳まで生きられないだろう」と告げられる[1]。限られた命ならばと、亡き父の影響で好きだった喜劇の世界へ足を踏み入れることを決意する。

1953年、大久保怜に師事し、司会の勉強をした後、1957年大阪梅田の映画館「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立つ[2]。この時、東宝専属で北野劇場はじめ東宝系の映画館や、北区角田町のOSミュージックホールなどで台本を書いていたコント作家・演出家こそ、その後長きにわたり大村の出演作を生み出した花登筺だった。大村は林正之助の懇願でごく一時期に吉本興業所属タレントとなったが、その時の林と大村との橋渡し役も花登が務めた。ただし大村は吉本興業との間でギャランティの問題が生じ、ごく短期間で吉本興業のマネジメント契約を終えた。大村の吉本興業時代のマネージャーは後に同社の社長となる中邨秀雄であった。

芸名は、師匠の大久保怜と自分の本名の岡村を合わせて「大村」、そして自身も大久保も紺色が好きだったから「崑」になったという一説がある[3]。元々の芸名は山冠の無い「大村昆」だったが、台本に「大村崑」と誤植されたのを大村自身や大久保が共に気に入り、以後、現在に至るまでそのまま芸名として使い続けている[4]

三木のり平からヒントを得たと言われる「ずれ落ちたロイド眼鏡」と、とぼけた芸風で黎明期のテレビに進出、茶川一郎佐々十郎とともに『やりくりアパート』(1958年、大阪テレビ朝日放送)の学生役で人気を得る。その後、茶川、佐々、芦屋雁之助芦屋小雁らと共演した『番頭はんと丁稚どん』(1959年、毎日放送)での“丁稚の崑松”役でさらに知名度をあげる。

1959年、花登が東宝から独立。松竹の支援の下、雁之助・小雁、由美あづさらとともに『劇団・笑いの王国』[注 1]の結成に携わり、座長に就く。

同年、『笑いの王国』が全面的に関わった『頓馬天狗』(読売テレビ / 東宝テレビ部[注 2])の主役を務め、人気を決定づける。とぼけたキャラクターながら、秘薬を飲むと抜群の剣の腕となり、左手だけの「片手抜刀」など、毎回身軽でトリッキーな殺陣をみせる大村の「尾呂内南公」は当時の子供たちを中心に絶大な支持を受け[注 3][5]、「崑ちゃん」の知名度を全国区に広めた。元々映画館の幕間コントの演者に過ぎなかったが、テレビを通じて上方のお笑いを中田ダイマル・ラケット藤山寛美藤田まことらと共に全国に波及させるきっかけを作った。

1963年、劇団内では「人気の崑、実力の雁之助」という2枚看板が成立していたが、雁之助はその演技力を評価されながらも二番手に甘んじていることへの不満などから、次第に花登や大村と距離を置くようになり、やがて軋轢を生む。大村とは気が合う仲だった弟・小雁も兄に追従していった。また「主宰者の妻」として看板女優の座に君臨する花登の妻、由美あづさの横暴など、座員間の人間関係の不協和音が表面化しはじめたことから、花登は劇団解散を決意する。

1965年、『日清ちびっこのどじまん』(フジテレビ系)の2代目司会者に抜擢[注 4]。『頓馬天狗』やCMで得た、子供視聴者からの絶大な人気にも支えられ、4年間にわたり司会を務めた。『ちびっこのどじまん』終了後は、それを引き継ぐ形で1971年日本テレビおはよう!こどもショー』の1コーナーとして『こんちゃんのトンカチうたじまん』がスタート。こちらも4年半にわたる人気コーナーとなった[注 5]。こうした“子ども向け番組・イベント”などにも多く関わっており、1970年日本万国博覧会「こどもの祭り」を演出・司会。1981年には神戸ポートアイランド博覧会で「こどもの世界の祭り」の制作、演出、司会を担当した。また玩具メーカー・エポック社テレビコマーシャルにも出演して子供たちに人気を博した。

1970年、花登の原作・脚本による『細うで繁盛記』にて主人公・加代(新珠三千代)を陰から支える理解者の一人である板前・善三役で出演し、コミカルな演技から脱却し、渋い演技で新境地をみせた。

1972年には花登が新たに結成した『劇団「喜劇」』に参加。再び劇団の主軸を支えることとなる。

1974年、劇団主宰者・花登と女優・星由里子の不倫問題が発覚。大村は花登と同様に、花登の当時の妻・由美にも恩義があり、妻・瑤子も由美と親しい仲であったため、板挟みの状態で、花登の行動を容認できない状況の中、苦渋の選択を強いられた。結局、花登に劇団退団を申し出、駆け出しの頃から築き上げた花登との「師弟関係」ともいうべき信頼関係は終わりを告げた[注 6]

以来、主な活動の場をコメディーや司会から、俳優中心にシフト。飄々とした持ち味以外にも、激しい気性の役どころなどもこなし、演技の幅を広げながらキャリアを積んでいる。その後は情報番組のコメンテーターや、講演活動などもこなしている。

1989年、58歳の時に大腸癌を患っているが、内視鏡手術で切除[6]。その日のうちに『午後は○○おもいッきりテレビ』の生放送にも出演していた。

2018年、『西郷どん (NHK大河ドラマ)』にて大河ドラマ初出演して話題となった。

2023年公開の映画、『SPELL?呪われたら、終わり?』に主演(寺西優真とのダブル主演)。撮影時は90歳であり、日本映画最高齢主演男優とされる[7]
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