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大杉 勝男東映時代
文藝春秋社『週刊文春』第9巻第24号(1967)より
基本情報
国籍 日本
出身地岡山県勝田郡奈義町
生年月日 (1945-03-05) 1945年3月5日
没年月日 (1992-04-30) 1992年4月30日(47歳没)
身長
体重181 cm
88 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション一塁手
プロ入り1965年
初出場1965年4月20日
最終出場1983年9月29日(公式戦)
1984年3月24日(引退試合)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
関西高等学校
丸井
東映フライヤーズ
日拓ホームフライヤーズ
日本ハムファイターズ (1965 - 1974)
ヤクルトスワローズ (1975 - 1983)
コーチ歴
横浜大洋ホエールズ (1990 - 1991)
野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年1997年
選出方法競技者表彰
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大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手(内野手)。
NPBにおける通算本塁打数・通算打点数ともに歴代9位[1][2]。 3兄弟の次男として生まれ、4歳年上の兄に影響されて野球を始めた。その後、兄と父を病で亡くす。 関西高校に入学し、硬式野球部に入部。1年でありながら真っ先にレギュラー捕手となるが、甲子園に出場することはかなわなかった。卒業後は、1963年に野球部を新設し、高校の先輩である岡田悦哉が監督となった丸井に入社。都市対抗の東京都予選などで活躍するが、創部2年目の1964年に野球部は休部する。 1965年、岡田の勧めもあり東映フライヤーズの入団テストを受け、入団[注釈 1]。 水原監督は大杉を入団1年目から積極的に起用した。本来の守備位置である一塁手にはノーム・ラーカーがいたが、外野手、三塁手を兼ねて22試合に先発出場を果たす。2年目には101試合に出場、180打数ながら8本塁打を残した。同年は打率.269を記録する。 1967年は飯島滋弥コーチの「月に向かって打て」の助言で開眼し、4月12日の対東京オリオンズ戦(後楽園球場)では両者無得点で迎えた延長13回無死無走者の打席で小山正明からサヨナラ本塁打[3]、5月の段階で両リーグトップの13号を放つ。
経歴
プロ入り前
現役時代