大本
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本の宗教の大本について説明しています。単語のもともとの意味については「wikt:根本」を、その他の用法については「大本 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

大本(おおもと/おほもと)社紋・九曜紋
梅松苑「みろく殿」(京都府綾部市
梅松苑(京都府綾部市天恩郷(京都府亀岡市東光苑(東京都台東区
設立1892年明治25年)
設立者出口なお
出口王仁三郎
種類宗教法人
本部梅松苑:京都府綾部市本宮町1-1
天恩郷:京都府亀岡市荒塚町内丸1番地
東光苑:東京都台東区池之端2-1-44
座標梅松苑:.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度17分37.1秒 東経135度15分37.7秒 / 北緯35.293639度 東経135.260472度 / 35.293639; 135.260472座標: 北緯35度17分37.1秒 東経135度15分37.7秒 / 北緯35.293639度 東経135.260472度 / 35.293639; 135.260472
天恩郷:北緯35度0分47.5秒 東経135度34分54.8秒 / 北緯35.013194度 東経135.581889度 / 35.013194; 135.581889
東光苑:北緯35度42分46.8秒 東経139度46分3.1秒 / 北緯35.713000度 東経139.767528度 / 35.713000; 139.767528
ウェブサイトhttps://oomoto.or.jp/wp/
テンプレートを表示

大本(おおもと/おほもと)は、出口なおとその娘婿出口王仁三郎が興した神道新宗教。「大本教」と呼ばれる事が多いが、正式名称には「教」がつかない。

戦後の1956年昭和31年)に教派神道連合会に加盟している。
概要

1892年明治25年)2月3日、京都府綾部に住む貧しい初老の女性である出口なおに「うしとらのこんじん(艮の金神)」と名乗る憑依する。それは国祖国常立尊であった。大本では、この日をもって開教としている。

1898年(明治31年)、なおと王仁三郎が教団組織を作る。王仁三郎はなおの娘すみの婿となり、なおの養子となった。

なおには国常立尊の神示がお筆先(自動筆記)によって伝えられた。王仁三郎には豊雲野尊などの神懸りによって神示が伝えられていたが、なおが死去すると、国常立尊の神懸りも加わり、『霊界物語』の口述を始めた。そして、「立替え・立直し」という終末主義的な宣伝が活発化し、知識人日露戦争で活躍した秋山真之などの海軍士官を含め急激に信徒を拡大していくが、これが当局の警戒を招き、1921年には王仁三郎らが不敬罪などで逮捕される(第一次大本事件[1]

1927年に大赦された王仁三郎らは布教活動を再開、1934年には外郭団体「昭和神聖会」を結成し、軍人や民間右翼団体と連携して活発な政治的活動をしようとするが、1935年に再び王仁三郎らは投獄される(第二次大本事件)。

戦後、活動を再開するが、1980年(昭和55年)、三代教主直日の後継者をめぐって内紛が起こる[1]。王仁三郎の孫・出口和明が教団批判を行った。当初直日の後継者とされていた直日の長女・直美の夫である出口榮二が追放されたことを機に、教団全体を巻き込んだ抗争となり、裁判沙汰となった。最終的に大本は三女・聖子が継ぐことになった。直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、和明は王仁三郎のみを教祖とする宗教法人愛善苑を設立した[2](第三次大本事件)。

儀式は一般的な神道のものに似るが、大本ではの代わりにを用いる[3]
教典
大本神諭』(277篇)、明治25年?大正7年
明治25年から国常立大神から出口なおにくだった神示集。『三千世界一度に開く梅の花』から始まり、世の大立替え、立直しが起こるとし、日清・日露戦争や世界大戦そして日本の敗戦などの預言が的中。また、救世主たる存在が出現することがミロクや日の出の守護という言葉で表現でされている。『…身魂は東から出てくるぞよ。此御方が御出になりたら、全然日の出の守護と成るから、世界中に神徳が光り輝く神世になるぞよ。』『…金の茶釜と黄金の玉が埋けてあるぞよ。これを掘り出して三千世界の宝といたすぞよ。黄金の玉が光出したら、世界中が日の出の守護となりて、神の神力はいかほどにも出るぞよ。』王仁三郎自身も『六十路をば 越えたる男子が現はれて この世のかぎり光り照らさむ』(霊界物語 第8巻 霊主体従)と記している。大本では出口王仁三郎がこのミロクであるとして教えを確立していく。
『伊都能売神諭』(37篇)、大正7年?大正8年
出口なおの死後、出口なおと同様、国祖の神から出口王仁三郎に下った神示集。
霊界物語』(81巻)、大正10年?昭和9年
出口なおの死後、出口王仁三郎によって書かれた物語。物語の中では弥勒神示とも表現されている。霊主体従、如意宝珠、海洋万里などの玉取りの物語、国取りの物語、天祥地瑞の物語。
教祖
開祖(厳の御魂)

出口なお(1837?1918年)を開祖と仰ぐ。明治25年56歳のなおに神がかりがはじまり、やがて神の啓示で筆を持てと言われ自動書記「筆先」が始まる。

変性男子の神系、国常立尊(艮の金神)
真如聖師(瑞の御魂)

出口王仁三郎(1871?1948年)は26歳の時に高熊山の修行で自己の使命を自覚。翌年「西北に行け」との神示に従うと出口なおに出会う。

変性女子の神系、豊国姫尊(坤の金神)
教主

二代教主 出口すみ子(1883?1952年)、王仁三郎の妻

三代教主 出口直日(1902?1990年)、王仁三郎の長女

四代教主 出口聖子(1935?2001年)、直日の三女

五代教主 出口紅(1956?)、聖子の姪
本拠地梅松苑内の「長生殿」(綾部市)梅松苑内の「みろく殿」(綾部市) 『アサヒグラフ』1952年12月24日号、朝日新聞社

梅松苑【綾部祭祀センター】(京都府綾部市本宮町1-1) - 本部。発祥の地。

天恩郷【亀岡宣教センター】(京都府亀岡市荒塚町内丸1番地) - 本部。亀山城趾。

東光苑【東京宣教センター】(東京都台東区池之端2-1-44) - 東京本部。

霊場

沓島(めしま)・冠島(おしま)[4][5][6]

歴史

1892年明治25年)2月3日 - 開祖・出口なお(56歳)に国常立尊が「艮の金神」として神懸りする。この年が大本立教の年とされる。

1900年(明治33年?明治36年) 出修神事、明治36年岩戸が明けて日の出の守護となる。

1918年大正7年)11月16日 - 出口なおが死去(81歳)、出口すみが二代教主となる。

1921年(大正10年) - 第一次大本事件。皇道大本と改称。

1928年(昭和3年)3月3日 - 王仁三郎は満56歳7ヶ月を迎え、みろく大神の神格になったとし「みろく大祭」を挙行。

1935年(昭和10年) - 第二次大本事件。

1945年(昭和20年) - 愛善苑として活動再開。

1948年(昭和23年)1月19日 - 王仁三郎が死去(76歳)。

1952年(昭和27年) - 二代教主出口すみの死去により、王仁三郎とすみの長女・出口直日が三代教主となる。同年、大本と改称し、前年施行された宗教法人法により宗教法人となる。

1956年(昭和31年) - 教派神道連合会に加盟[7]

1980年(昭和55年)- この頃、教団内の内紛が裁判に発展し、2グループが離脱した。長女・直美を四代教主と仰ぐ一派は「大本信徒連合会」を結成、王仁三郎の孫の1人・出口和明は「宗教法人愛善苑」を設立した[2]

1990年平成2年) - 三代教主出口直日が死去。出口聖子が四代教主を継ぐ。

2001年(平成13年)4月29日 - 四代教主出口聖子が死去。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef