大木惇夫
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大木 惇夫
ペンネーム大木 篤夫
誕生大木 軍一
(1895-04-18) 1895年4月18日
広島県広島市天満町
(現在の広島市西区天満町)
死没 (1977-07-19) 1977年7月19日(82歳没)
墓地港区の安養院
職業詩人翻訳者作詞家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴広島商業学校
活動期間1922年 - 1977年
ジャンル詩、児童文学
代表作国境の町(詩謡集)
主な受賞歴紫綬褒章(1967年)
勲四等旭日小綬章(1972年)
デビュー作『風・光・木の葉』
子供長男:新彦(あらひこ、工学博士)
長女:藤井康栄
二女:宮田毬栄
三女:大木あまり
影響を受けたもの

北原白秋

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大木 惇夫(おおき あつお、1895年明治28年)4月18日 - 1977年昭和52年)7月19日)は日本詩人翻訳者作詞家。本名は軍一(ぐんいち)。1932年までは篤夫(あつお)と名乗っていた。太平洋戦争大東亜戦争)中の戦争詩で有名だが、児童文学作品他、「国境の町」などの歌謡曲、「大地讃頌」をはじめとした合唱曲軍歌(戦時歌謡)、社歌校歌、自治体歌の作詞も多い。1967年紫綬褒章1972年勲四等旭日小綬章
経歴
出生から少年時代

広島県広島市天満町(現在の西区天満町)出身。生家は裕福な呉服商であったが、彼が物心付く頃には没落しており、貧しい暮らしの中で育った。少年時代に『アラビアン・ナイト』や巖谷小波の『世界お伽噺』を読み、文学者を志す。広島商業学校(現、広島県立広島商業高等学校)の学生時代に世界の文学に親しむと共に、与謝野晶子吉井勇若山牧水の影響を受けて短歌を創作する。その後、三木露風北原白秋の詩を知り、特に白秋に深い感銘を受ける。広商時代に同級生に岸田正記がいる。
文壇に出た頃

学校卒業後、三十四銀行(現三菱UFJ銀行の前身の一つ)広島支店に就職するが、文学に対する志望が強く、20歳の時に上京する。博文館で働きながら、文学活動を行う。この時期に書いた小説が大阪朝日新聞の懸賞に当選している。また、キリスト教受洗をしている。

その後、同棲している女性の肺結核の療養のため、博文館を辞めて小田原に引っ越し、文筆活動に専念する。これがきっかけで、当時小田原に在住していた憧れの人である北原白秋の知遇を得る。1922年大正11年)白秋と山田耕筰が編集する『詩と音楽』創刊号に初めて詩を発表した。

1924年(大正14年)にはジョバンニ・パピーニ『基督の生涯』の翻訳をアルスから出版し、ベストセラーになると共に、処女詩集『風・光・木の葉』を白秋の序文付で同じくアルスから出版した。1928年、訳詩集『近代佛蘭西詩集』をアルスから刊行(ただし親友平野威馬雄によるとこの翻訳は平野の仕事であり、フランス語のできない大木のために訳稿をプレゼントしたものであるという[1])。その後も、一貫して詩人として白秋と行動を共にした。

1930年代後半から歌謡曲の作詞も手がけ東海林太郎の「国境の町」は一世を風靡した。ほかに「夜明けの唄」、「隣の八重ちゃん」、『八丈舟唄』、「港の恋唄」、「俺は船のり」、「雪のふるさと」など、スコットランド民謡、「麦畑(誰かが誰かと)」(伊藤武雄共訳)他の訳詞の他、軍歌社歌あるいは山田とのコンビで校歌も多数残している。
戦中期

1941年(昭和16年)太平洋戦争大東亜戦争)が始まると徴用を受け、海軍の宣伝班の一員としてジャワ作戦に配属された。バンダム湾敵前上陸の際には乗っていた船(佐倉丸)が味方の船の誤射により沈没したため、同行の大宅壮一横山隆一と共に海に飛び込み漂流するという経験もしている。

この際の経験を基に作られた詩を集めて、ジャカルタで現地出版された詩集『海原にありて歌へる』(1942年(昭和17年)アジアラヤ出版部刊、題字:今村均(中将)、序文:町田敬二(中佐、爪哇(ジャワ)派遣軍宣伝報道部長)、跋文:浅野晃富沢有為男大宅壮一)に日本の戦争文学の最高峰ともいわれる『戦友別盃の歌-南支那海の船上にて。』(「言ふなかれ、君よ、別れを、世の常を、また生き死にを、-」)が掲載されている。この作品は前線の将兵に愛誦された。

この詩集で日本文学報国会大東亜文学賞を受賞すると、作品の依頼が殺到した。この国家的要請に対し、大木は誠実に応じ、詩集『豊旗雲』『神々のあけぼの』『雲と椰子』や従軍記、映画向けの作詞、各新聞社が国威発揚のために作成した歌曲の作詞等を行った。その一方で序文以外にはほとんど戦争色の感じられぬ詩集『日本の花』も編集している。

しかし、戦争末期には過労が祟って身体、精神共に不調となり、福島県疎開して終戦を迎えることになる。
戦後の不遇

戦後は戦時中の愛国詩などによって非難を浴び、一転して戦争協力者として文壇から疎外される。戦争中、大木をもてはやした文学者やマスコミは彼を徹底的に無視し、窮迫と沈黙の日が続いた。そのため、戦後は一部の出版社から作品を出版しながら、校歌の作詞等をして生涯を過ごした。

ただ、石垣りんの項目にあるように、新日本文学会の重鎮のひとりであった壺井繁治とともに、銀行員の詩集の選者をつとめているということもあるので、戦後の活動の全体像についてはなおも検証が必要である。墓所は港区の安養院。
その他

コラムニストの
山本夏彦は戦後、電車の中で見かけた大木が余りに不遇な様子なので、山本が編集する雑誌に原稿を依頼したという。

合唱曲で人気の高い「大地讃頌」は大木惇夫の詩である。この曲を含むカンタータ土の歌』(第一楽章「農夫と土」、第二楽章「祖国の土」、第三楽章「死の灰」、第四楽章「もぐらもち」、第五楽章「天地の怒り」、第六楽章「地上の祈り」、第七楽章「大地讃頌」)は、反戦・平和の色が濃い歌詞となっている。

大木は会話中に意見が合うと喜びのあまりに相手に抱きつき、人の顔を犬のようにペロペロとなめる癖があった。「大地讃頌」作曲者の佐藤眞も「もう何回なめられたか分からない」と語っている。

俳優の森繁久彌は、大木の「戦友別盃の歌」をいたく気に入っており(全文暗誦できる)、幾度か自身のアルバムに吹き込んでいる。その影響から演出家の久世光彦も気に入り、この詩を使ったドラマ(「言うなかれ、君よ、別れを」1996年・TBS)を製作している。

元武蔵工業大学教授・原子力研究所所長 大木新彦は長男、北九州市立松本清張記念館館長・藤井康栄中央公論社』の元編集長でエッセイストの宮田毬栄俳人大木あまりは実娘。

主要著書

※は「大木篤夫」の名前で発表したもの。
詩集・歌謡集

『風・光・木の葉』※アルス、1925 

『秋に見る夢』※アルス、1926 

『危険信号』※アルス、1930 

『大木篤夫抒情詩集』博文館 1931

『カミツレ之花 抒情詩集』鬼工社 1934


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