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日本の政治家大木 喬任おおき たかとう
生年月日1832年4月23日
(天保3年3月23日)
出生地 日本・肥前国赤松町
(現在の佐賀県佐賀市水ヶ江三丁目)
没年月日 (1899-09-26) 1899年9月26日(67歳没)
死没地 日本・東京府東京市
出身校弘道館
称号正二位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
子女大木遠吉(長男)
岡崎えん(娘)
親族大木知喬
大木 喬任(おおき たかとう、天保3年3月23日〈1832年4月23日〉- 明治32年〈1899年〉9月26日)は、明治期の日本の官僚、政治家[1]。通称を幡六[要説明]、民平[要説明]。
栄典は正二位勲一等伯爵。 藩校の弘道館で学び、1850年(嘉永3年)副島種臣らと共に枝吉神陽の義祭同盟結成に参加。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊皇攘夷へと導くことを図るが果たせなかった。万延元年(1860年)藩校弘道館から選ばれて江戸遊学の途に上る。 1868年(明治元年)に新政府が樹立されると、大隈・副島・江藤らとともに出仕し、徴士 戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民部大輔として戸籍法制定を行い、のち民部卿に任命されるが、大隈の巻き返しで民部省は大蔵省に統合された。民法編纂総裁として法典編纂に関わる。のち元老院議長、参議などの要職を歴任した。
経歴
出自の長男として赤松町(現在の佐賀市水ヶ江三丁目)に生まれる。天保13年(1842年)父、知喬が亡くなり、以降、母シカ子の手で育てられる。
幕末
明治新政府
1899年(明治32年)に死去、享年67。 教育制度や法典編纂の確立にも尽力したことから、明治の六大教育家の1人に数えられている。
評価