大月氏国
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月氏(げっし、?音:Yuezh?)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。紀元前3世紀帝国と北方民族。


目次

1 歴史

1.1 月氏

1.2 大月氏

1.3 クシャーナ朝

1.4 キダーラ朝

1.5 小月氏

1.6 昭武九姓


2 名称

3 言語系統

4 地理

4.1 月氏

4.2 大月氏


5 五翕侯

6 仏教伝来

7 遺跡

8 備考

9 脚注

10 参考文献

11 外部リンク

12 関連項目


歴史
月氏

始皇帝(在位:前246年 - 前210年)の時代、中国の北方では東胡と月氏が強盛であった。一方、匈奴陰山の北からオルドス地方を領する小国にすぎず、大国である東胡や月氏の間接支配を受けていた。ある時、匈奴の単于頭曼は、太子である冒頓を廃してその弟を太子にしようと、冒頓を月氏へ人質として送った。しかし、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を急襲してきた。これに怒った月氏は冒頓を殺そうとしたが、あと少しの所で逃げられてしまう。匈奴に逃げ帰った冒頓は父の頭曼を殺して自ら単于となり、さっそく東の東胡に攻め入ってこれを滅ぼし、そのまま西へ転じて月氏を敗走させ、次いで南の楼煩、白羊河南王を併合し、漢楚内戦中の中国にも侵入し、瞬く間に大帝国を築いた。

その後も依然として敦煌付近にいた月氏であったが、孝文帝(在位:前180年 - 前157年)の時代になって匈奴老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。王が殺された月氏は二手に分かれ、ひとつがイシク湖周辺へ逃れて大月氏となり、もうひとつが南山羌(現在の青海省)に留まって小月氏となった。

[1]
大月氏

イシク湖周辺に逃れてきた月氏の残党(大月氏)は、もともとそこにいた塞族の王を駆逐してその地に居座った。しかし、老上単于(在位:前174年 - 前161年)の命により、烏孫昆莫が攻めてきたため、大月氏はまた西へ逃れ、最終的に中央アジアのソグディアナ粟特)に落ち着いた。そこで大月氏はアム川の南にあるトハリスタン大夏)を征服し、その地に和墨城の休密翕侯(きゅうびつきゅうこう)、雙靡城の雙靡翕侯(そうびきゅうこう)、護澡城の貴霜翕侯(きしょうきゅうこう)、薄茅城の?頓翕侯(きつとんきゅうこう)、高附城の高附翕侯(こうふきゅうこう)の五翕侯[2][3]を置いた。

一方、前漢では日々匈奴の侵入に悩まされていたため、遂に西方の月氏と共同で匈奴を撃つべく、武帝(在位:前141年 - 前87年)の時代に張騫を使者とした使節団を西域に派遣した。張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着いた。この時の大月氏王はかつて匈奴に殺された先代王の夫人で、女王であった。大月氏女王は張騫の要件を聞いたが、すでに復讐の心は無く、国家は安泰しており、漢が遠い国であるため、同盟を組むことはなかった。クシャーナ朝の領域

[4]
クシャーナ朝詳細は「クシャーナ朝」を参照

それから100余年、護澡城の貴霜(クシャン)翕侯である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして、自立して王となり、貴霜王と号した。丘就卻は安息(パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取った。また、濮達国・?賓国を滅ぼし、その支配下に置いた。丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。この政権はクシャーナ朝を指すものであり、丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクトに比定される。しかし中国ではそのまま大月氏と呼び続けた。

[5]
キダーラ朝

魏書』列伝第九十に「大月氏国、北は蠕蠕(柔然)と接し、(柔然から)たびたび侵入を受けたので、遂に西の薄羅城(バルフ)へ遷都した。その王寄多羅(キダーラ)は勇武で、遂に兵を起こして大山(ヒンドゥークシュ山脈)を越え、南の北天竺(インド)を侵し、乾陀羅(ガンダーラ)以北の五国をことごとく役属した。」とあり、この頃の大月氏はクシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝(英語版)を指し、中国ではキダーラ朝までを大月氏と呼んだことが分かる。その後キダーラ朝は匈奴(エフタル、フーナ)の侵攻を受けた。

[6]
小月氏詳細は「羯族」および「zh:羯」を参照

月氏から分かれて南山羌(現在の青海省)に留まった小月氏は、その後も生き長らえ、三国時代の記録に「敦煌西域の南山中(チベット高原)、?羌の西から葱嶺(パミール高原)までの数千里にわたって、月氏の余種である葱?羌・白馬羌・黄牛羌がおり、それぞれに酋豪がいた。」とある。

また、『魏書』にある小月氏国は上記の小月氏ではなく、クシャーナ朝の後継王朝であるキダーラ朝の君主キダーラの子が治める分国で、都は富楼沙城(ペシャーワル)にあった。


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