大映
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「大映」のその他の用法については「大映 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

大映株式会社(だいえい)は、
1942年から1971年まで存在した日本の映画会社。設立当初の法人名は大日本映画製作株式会社。

1974年から2003年まで存在した日本の映画会社。徳間書店の子会社であり、1.の映画事業を引き継いだ。設立当初の法人名は大映映画株式会社。

1.と2.は登記上は別会社であるが、本項では、便宜上、1.と2.の映画事業を大映の歴史として詳述する。1.と2.による映画事業を譲渡され、設立当初は株式会社角川大映映画と称していた角川映画株式会社も新たに設立された会社であり、1.と2.が法人として前身にあたるわけではない。

1.の法人としての設立は大手の中では後発だが、戦前の日活の製作機構を主に引き継いでいるため、伝統ある老舗として語られることがある。発足時に合併で得た新興=帝キネの製作部門は戦後に分離し、東映の母体となる。
沿革
戦時統合で発足

第二次世界大戦がはじまると、戦時統制の一環として小規模企業を整理・統合する戦時企業統合が始まり、内閣情報局の指示によってこれがさまざまな分野で進められていった。映画業界でも1942年(昭和17年)、新興キネマ大都映画日活製作部門を軸とした合併が行われ、永田雅一(専務)、河合龍齋(専務)、真鍋八千代(監査役)、波多野敬三(常務)、六車脩(常務)、薦野直実(常務)、吉岡重三郎鶴田孫兵衛林弘高東京吉本)の9名が発起人となり、1942年1月27日に大日本映画製作株式会社(大映)が誕生、松竹東宝との3社体制が成立した。

情報局の当初案では、映画業界を松竹と東宝の2社体制に再編することになっていたが、これを知った新興キネマ京都撮影所所長の永田雅一が、政府寄りの第三勢力として「統制会社」の可能性をアピールする形で同局に掛け合い、最終案ではこれにもう1社加えた3社体制とすることを認めさせた。

新興キネマは松竹系列であり、事実上松竹の子会社であったが、同社が主導して企業統合がされたことは世間を驚かせ、「新興キネマから情報局第五部にカネが動いたのではないか」という噂が広まった。真相は不明だが、大映の社史も本件を包み隠さず事実を掲載している。

この年に阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎市川右太衛門の四大スターの共演を掲げた第一回作品『維新の曲』(監督・牛原虚彦)を発表し、映画製作の第一歩を歩み出す。

映画業界が3社体制となり、6つの撮影所が大映の傘下となった。

日活太秦撮影所大映京都撮影所

日活多摩川撮影所(大映東京第二撮影所、のちの大映東京撮影所、現在の角川大映撮影所

新興キネマ京都太秦撮影所(大映第二撮影所、戦後の東横映画撮影所、現在の東映京都撮影所

新興キネマ京都太秦第二撮影所(大映嵯峨野撮影所、すぐに閉鎖)

新興キネマ大泉撮影所(大映東京第一撮影所、すぐに閉鎖、戦後の太泉スタジオ、現在の東映東京撮影所

大都映画撮影所(かつての天然色活動写真巣鴨撮影所、すぐに閉鎖)

国内の映画の配給系統が「紅系」と「白系」の2系統と統合することで、松竹と東宝と配給枠を分け合う形になった大映は製作本数の減少を余儀なくされ、京都の大映京都・大映第二、東京の大映東京第二を残して、嵯峨野・大映東京第一・大都の各撮影所を閉鎖し、3か所のスタッフと俳優は、大映京都・大映第二・大映東京第二が引き継いだ。

1943年(昭和18年)、初代社長に作家の菊池寛を担ぎ出す。当初の社名表記は、大映マークにかぶさるように旧社名が縦表記でズームしながらクレジットされた。

1945年(昭和20年)、社名を大映株式会社に改める。

1946年(昭和21年)、専務の永田雅一が副社長に昇格する。

1947年(昭和22年)、副社長の永田雅一が社長に昇格する。独占禁止法の趣旨に基づき、日活との関係を解消するが、「統制会社」が戦後軒なみ解散を命じられる中、大映は存続が許された稀有な事例である。

社名変更後の表記は、星空の後に動く雲をバックに大映マークが映り、それにかぶさるように「作製社會式株映大」の文字がズームし、停止して落下する演出で1950年(昭和25年)頃まで使用された。

予告編などは「映画は大映」の☆マークが付いたキャッチフレーズが多用された。
永田時代

数社を統合してオーナーとなった永田雅一が、社員をすべて縁故採用で固める会社組織を行うと、自身のカリスマ性を高め、組織を強固にした反面、組織内に近親憎悪的な軋轢を数多く生んだ[1]

社風は日活の伝統を受け継ぎ、尾上松之助が保守的な京都の土壌に持ち込んだ自由な気風がハイカラな伝統を生んだ。他社間だけでなく、東西撮影所同士でもライバル視する排他的な気風も残した。企画会議は、京都作品も必ず東京本社4階会議室に永田社長を筆頭に40人からのプロデューサーらが集められ、最終決断は必ず永田が下す体制を敷いた。東京と京都の撮影所は、撮影設備も機材も永田の独断で最新鋭のものが揃えられたが、倒産の最後まで自社の現像所は持たなかった[2]

この体制下で大映は一時期大きな成功を収めたが、直営の興行館が東宝や松竹に比べ数の面ではるかに劣り、興行収入に大きく影響した。映画産業の近代化・斜陽化が進むにつれて、永田の前時代的な「カツドウヤ」の体質を残したままの丼勘定と、公私混同した典型的なワンマン経営は様々な弊害を生み、最終的に大映の破綻に至る。
1940年代

1947年(昭和22年) 菊池は戦時中の
翼賛運動を問われてGHQによる公職追放の対象者として指定され、社長辞任に追い込まれると、副社長の永田雅一が社長に昇格し、人気作家の川口松太郎が専務に招かれる。永田は他社に例を見ない「60歳定年制」[注釈 1] を、独断で導入決定した。

1948年(昭和23年)1月 永田が公職追放となり、取締役の真鍋八千代が社長に就任する。永田は5月に指定解除されて社長に復帰して真鍋は会長となる。3月6日に前社長の菊池が公職追放されたまま死去した。
プロ野球団金星スターズを買収して「大映スターズ」が発足し、永田がオーナーとなる。三益愛子主演の「母物シリーズ」が始まり、10年続く大人気シリーズとなる。現代劇の好調を受けて「古ぼけた時代劇のスターはもうウチはいらん」と放言した永田に、設立時からの四大時代劇スターらが怒りで大映を脱退し、他のスター・俳優・スタッフらも多くが大映を去った。特に京都サイドは、第二撮影所の預かりになった東横映画に多く流れた[3]
1950年代

専属スターの大量流出によってできた穴を埋めるべく、ベテラン長谷川一夫を重役に迎え、彼を大黒柱にプログラムを組む。ニューフェイスや他所からの人材を惜しげもなく投入し、後に三大女優といわれる京マチ子山本富士子若尾文子市川雷蔵を日本映画史に残るスターに伸し上げた。他社専属やフリーの高峰秀子鶴田浩二岸惠子らも出演し、名作を多数送り出す。

1951年(昭和26年)

6月3日 永田が個人所有していた競走馬トキノミノルが10戦10勝で第18回東京優駿を優勝する。永田はダービー馬オーナーとなる。馬名の「トキノ」は初代社長の菊池寛が所有馬に付けていた冠名であった。トキノミノルは17日後に破傷風で急死した。11月に「大映創立10周年」の記念祝典を挙行した。

9月、日本では前年に封切られた『羅生門』(監督・黒澤明)がヴェネツィア国際映画祭グランプリを受賞する。


1952年(昭和27年)

2月 日米合作映画『いついつまでも』製作を決定。

3月 『羅生門』がアカデミー賞受賞。


1953年(昭和28年) 『雨月物語』(監督・溝口健二)がヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞する。同年、『羅生門』の国際的な成功を見た永田が、社内の反対を押し切って制作させた『地獄門』(監督・衣笠貞之助)が封切られる。

1954年(昭和29年) 『地獄門』がカンヌ国際映画祭グランプリを受賞する。同年の『山椒大夫』(監督・溝口健二)もヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞する。
だがこの頃、映画製作を再開した日活が大映のスタッフを多数引き抜き、多くのスタッフが日活に移籍する事態を招いた。大映は日活の製作部門が組み込まれていた経緯があり、移籍したスタッフのほとんどは出戻りである。この年、歌舞伎の世界を離れた市川雷蔵と長唄三味線杵屋勝東治の次男である勝新太郎が入社する。

1955年(昭和30年) 上述のトキノミノルをモデルに、『幻の馬』(監督・島耕二)を制作して文部省選定映画となる。

1956年(昭和31年) 1954年度のミス資生堂であった叶順子がニューフェースとして入社、1957年にデビューする。

1957年(昭和32年) 大映スターズが高橋ユニオンズを合併して大映ユニオンズが発足して永田がオーナーに留まる。5月にスター引き抜き防止の「六社申し合わせ書」に永田社長が調印する。6月に「大映ビスタビジョン」第一作『地獄花』を公開する。


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