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大日本麦酒株式会社(だいにっぽんびーる)は、かつて日本に存在したビールメーカーである。現在のアサヒビールやサッポロビールなどの前身であり、韓国のハイトビールとも歴史的繋がりがある。 1906年9月に、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本麦酒(恵比寿ビールを製造していた)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)が合併して誕生した。日本麦酒の馬越恭平社長(三井物産重役)が中心となり実現したこの「大合同」により、合併時の市場占有率は約7割に近づいた(ヱビス、サッポロ、アサヒの商標で1935年の市場占有率65%)。合併前の厳しい市場競争で三井系の日本麦酒の経営が危機に陥りかけたため、馬越恭平は内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。 その後、1907年に東京ビールを製造していた東京麦酒を買収。1933年には日本麦酒鑛泉(ユニオンビール・三ツ矢サイダーを製造販売。根津嘉一郎経営)を、また1943年には桜麦酒(サクラビールを製造販売。1929年に帝国麦酒から社名変更。旧鈴木商店系)を合併した。一方で朝鮮市場向けのビールを製造するために、地元資本と折半して資本金600万円で1933年8月に朝鮮麦酒株式会社、2020年現在のハイトビール(ハイト眞露)を設立。ハイトは現在韓国でビールシェア一位である。 第一次世界大戦の戦後処理として、ドイツ租借地であった中国・青島が日本の管理下におかれたことを受け、ドイツ資本によって建てられた青島ビールの経営権を1914年に取得し、1945年まで大日本麦酒が自社工場として経営した。 戦後の1949年、財閥解体のあおりを受ける形で過度経済力集中排除法の適用を受け、朝日麦酒(現・アサヒグループホールディングス)と日本麦酒(現・サッポロホールディングス)に分割された。
歴史
沿革
1906年3月26日 - 大阪麦酒・日本麦酒・札幌麦酒の3社合同により、大日本麦酒株式会社を設立。馬越恭平が社長に就任。
1909年6月10日 - 清涼飲料水「シトロン」発売。
1911年5月23日 - 清涼飲料水「ナポリン」発売。
1914年3月21日 - 清涼飲料水「リボンラズベリー」「リボンタンサン」発売。
1921年4月30日 - 博多工場竣工。
1923年6月6日 - 名古屋工場竣工。
1927年4月 - 「アサヒ生特大瓶2リットル」発売。
1930年 - 純粋ビール酵母製剤「エビオス錠」発売。
1933年
7月19日 - 日本麦酒鑛泉を合併、川口工場・半田工場・初島工場・西宮工場・平野分工場を追加。
8月 - 麦酒合同販売株式会社を設立。
1935年 - 「アサヒスタウト」発売。
1937年
2月 - 高橋龍太郎が社長に就任。
8月 - 「アサヒスタッビー」発売。
1942年 - 大日本麦酒健康保険組合連合会結成。
1943年
5月 - ビールメーカー各社の商標が廃止され、各社ともラベルは「麦酒(家庭用・業務用)」に統一される。
11月 - 桜麦酒を合併、門司工場とする。
1944年6月21日 - 財団法人大日本麦酒科学研究所設立。
1946年
4月21日 - 大日本麦酒従業員組合連合会結成。
12月 - 財団法人大日本麦酒科学研究所を財団法人目黒科学研究所に改称。
1948年2月8日 - 過度経済力集中排除法に基づく指定会社に。