大日本帝国_(映画)
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大日本帝国
監督
舛田利雄
脚本笠原和夫
製作幸田清
天尾完次
太田浩児
瀬戸恒雄
ナレーター内田稔
出演者丹波哲郎
三浦友和
西郷輝彦
音楽山本直純
主題歌五木ひろし契り
撮影飯村雅彦
編集西東清明
製作会社東映東京
配給東映
公開 1982年8月7日
上映時間180分
製作国 日本
言語日本語
配給収入14億円[1]
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『大日本帝国』(だいにっぽんていこく) は、1982年昭和57年)8月7日に公開された東映製作配給の戦争映画である。180分、カラーワイド、映倫No.110827。
概要

「シンガポールへの道」と「愛は波濤をこえて」との二部構成の長編。

二百三高地』の大ヒットを受けて製作された[2]1980年代前半に東映が8月に公開していた一連の舛田利雄監督、笠原和夫脚本の戦争映画の1本で、さらに続いて製作された『日本海大海戦 海ゆかば』を加えて、東映の、同監督・同脚本による、戦史映画三部作となる。
製作の経緯

企画は岡田茂東映社長(当時)[3][4]。『二百三高地』の大ヒットを受けて銀座に笠原和夫[5]が岡田社長と天尾完次企画部長(当時)と繰り出したおり、岡田から「もう一度戦争映画を作ろう」と指示を受けた[3]。岡田は笠原に「This Is The War(これぞ戦争だ!)」みたいな「太平洋戦争を舞台に日本が勝ったとこだけ選んで繋いでくれ」と脚本執筆を指示した[3][4][6]タイトルも岡田の命名によるものである[7]。岡田の構想は東条英機を軸に日本の勝利を華々しく描くものだった[4]。笠原は岡田の指示を全く無視し[4]、笠原のライフテーマであった”昭和天皇の戦争責任問題”を明確に盛り込んだ[4]。題名が反動的であるとして話題を呼んだが[3]、監督の舛田利雄も「題名だけで批判されるのは目に見えていたから、余計、内容的には、その時代を知る者として、伝えなければいけないことを、ちゃんと伝えようと作った」と述べている[4]

『二百三高地』の翌年に公開の予定で企画されたが、東宝が「8.15シリーズ」と称する戦記映画の一環として『連合艦隊』を公開したため、競合を避けて翌々年の公開となった。
あらすじ

ABCD包囲網によって窮地に立たされた日本政府は、対立するアメリカとの和解を模索していたが、対米開戦を強力に主張する陸軍を中心とした勢力に屈し、近衛内閣は総辞職した。そこで強硬派の急先鋒である陸軍大臣東條英機をあえて首相に任命した昭和天皇は、そのうえで対米開戦を回避するよう指示した。

これに最初は応えていた東條首相だったが、いずれ国内の強硬派を抑えきれなくなると読んでいたアメリカは、先制攻撃をさせるため日本を挑発する。そしてついに、海軍による真珠湾攻撃を天皇は了承してしまい、太平洋戦争は開戦した。

その当時、東京の陸軍士官学校では職業軍人の小田島剛一が少尉の任命式を受けていた。同じころ、京都ではクリスチャンである京都大学学生・江上孝が、恋人の目前で特高警察に連行された。このあと江上は、不本意ながら処世術として軍隊に志願する。

多くの庶民も戦争にかり出された。その一人である床屋の小林幸吉は、見合いによる結婚初夜の直後に東南アジア戦線へ出征した。

小田島の指揮する中隊の所属となった小林らは、自転車などを駆使してマレー作戦に従軍する。シンガポール攻略戦で、イギリス軍が地元住民に防衛を任せており、激しく日本軍に抵抗する地元民に衝撃を受け、自分らが考えていたアングロサクソンからの解放の戦争という単純な図式は成立せず、今後戦争が長引くことを予感する。

また、イギリス軍のブキテマ高地における最後の猛反撃の中で日本軍はだまし討ちに遭い、小林の所属する分隊の桐山軍曹らが戦死し、小林も負傷したが、そのことにより小林らはイギリス軍に対する憎しみを募らせていった。

そのころ小林の新妻となった美代は妊娠しており、戦地の夫を心配していた。彼女はラジオで大本営発表が「大元帥陛下」と言うのを聞き、どうして天皇は戦場で直接指揮を執らずに宮城にいるのかと疑問に思う。その後、シンガポールから帰還して陸軍病院で静養してた小林に面会に行くと、戦友の死や敵兵に対する憎しみにより、第一線で闘う軍人の思考に変わっていた夫を強く窘めた。

東南アジアでは順調な進撃を続けていた日本軍であったが、ミッドウェー海戦ガダルカナルの戦いで米軍に致命的な敗北を喫すると、攻守が逆転し日本軍の戦況は不利となっていった。この事態打開に藁をもつかむ思いの東條は、当時対立していた石原莞爾に助言を求めるが、石原莞爾からは、撤退すべきと現実を突き付けられ厳しい言葉を浴びせられただけであった。東條は石原に対して別れ際に「ただ私は総理だ。私への反逆はお上への反逆になるということを、忘れんでくれ給え」と言い放ち、結局孤立を深めてしまう。

米軍はついに絶対国防圏の一角サイパン島に攻めてきた。サイパン島には小田島とシンガポール戦での負傷後一旦は除隊した小林が再召集され配置されていたが、「100匹の猫が1匹の鼠を食い殺す」ような戦力差と言われたサイパンの戦いの中で日本軍は組織的な抵抗力を失い、小田島ら日本軍の敗残兵は、サイパン島に居住していた日本の一般市民と共にジャングルを彷徨い歩くこととなる。進退窮まった多くの残存日本兵と一般市民は海ゆかばを合唱しながらバンザイ突撃を敢行するが、アメリカ軍の十字砲火で次々と倒れていった。残った一般市民もバンザイクリフで次々と自決する中、小田島と小林とガラパンで小料理屋を営んでいた小田島の恋人国吉靖子らは懸命に生き抜こうとするが、飲み水を汲みに行った際に靖子はアメリカ軍に発見され、手榴弾で自決してしまう。ここに及んで大日本帝国軍人としての忠節を貫くことに疑問を感じた小田島は自ら階級章をはぎ取り、アメリカ軍に投降の話し合いに行くが、砂浜で日本兵の頭蓋骨を弄ぶアメリカ軍兵士のカップルを見て逆上し、カップルに対し発砲したが、絶命寸前の女性兵士に反撃されて死んでしまう。

この後サイパン島はアメリカ軍の手に落ち、この責任を問われた東條は、首相を辞すことになる。

一方、江上は予備学生として海軍航空隊に入り、フィリピンで神風特別攻撃隊に志願し出撃するが、悪天候で引き返してしまう。それを不満に思った戦闘機パイロット大門勲に詰め寄られ、二人は対立を深めていった。その後アメリカ軍の進撃で飛行場を追われ、ジャングルに逃げ込んだ江上らは、秘密保持のために連れてきた現地民を虐殺する。その中には江上の恋人柏木京子に瓜二つのマリアがいたが、大門から部隊を守るためだという強硬な申し出に対して、江上は虐殺を容認してしまう。

フィリピンを失った日本はその後硫黄島や沖縄も失った。本土への空襲も激化し、東京大空襲で美代は焼け出されてしまう。その後、広島長崎へ原爆も投下された。

こうした事態をうけて、御前会議が開かれた。ここで天皇は、これ以上の犠牲を出したくないと言って泣く。これにより、徹底抗戦を叫ぶ者たちも戦争続行を諦めざるを得なかった。

この結果、日本は無条件降伏したが、連合国内で天皇の責任を問う声が高まっていた。このような流れの中で、下村定陸軍大臣が、開廷が予想される軍事裁判で、日本側の立場を主張できるのは東條のみと敢えて恥を忍んで法廷に立つことを説得していた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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