大日本帝国憲法第11条(だいにほん/だいにっぽん ていこくけんぽう だい11じょう)は、大日本帝国憲法第1章にある、天皇大権の一つである陸海軍の統帥権を規定した条項である。 .mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}天皇ハ陸海󠄀軍ヲ統帥ス 「天皇は、陸海軍を統帥する。」 実質的な意義は、統帥事項を政府(内閣や議会)の管轄から独立させ、陸海軍当局の管轄とさせたことにある。この条文等の解釈を巡って、ロンドン海軍軍縮会議の際に、いわゆる統帥権干犯問題が起こった。 明治維新の当初には、大日本帝国の統一的な軍隊は未だ存在せず、各藩の軍隊があったのみである[1]。戊辰戦争その他明治初年の戦役において官軍として編成されたのは、諸藩に命じて出兵させたのにすぎなかった[1]。明治2年(1869年)の版籍奉還後も、藩政は依然として継続しており、藩兵の制も旧のごとくであった[1]。明治4年(1871年)3月、薩摩藩、長州藩及び土佐藩の三藩の兵を徴して親兵とし、同年4月に東山道(東山道鎮台)及び西海道(西海道鎮台)に鎮台を置いた[1]。同年8月には、二鎮台を廃して東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台、東北鎮台を置いた[1]。これらは、同年7月の廃藩置県と相まって、初めて大日本帝国軍隊の統一が完成されたものとされている[1]。 明治5年(1872年)11月28日、明治天皇は、初めて全国徴兵の詔を発した[2]。これによって、兵役を武士の特権とする制度が全廃され、国民皆兵の制度が布かれることとなった[2]。同日、太政官の名をもって徴兵告諭 明治6年(1873年)1月10日には、徴兵令が発布され、国民があまねく兵役義務に服することとなった[2]。徴兵令は、その後、明治8年(1875年)1月、明治15年(1882年)1月、明治22年(1889年)1月に改正され、昭和2年(1927年)の兵役法の制定をもって全部改正されたが、その基礎たる精神において異なる点はない[2]。 陸軍の編制は、明治4年(1871年)8月に設けられた四個鎮台が明治6年(1873年)1月に六個鎮台に増加され、さらに、明治20年(1887年)に鎮台を師団に改めて、近衛師団及び六師団を置くこととなった[2]。師団の制度は、このときに初めて定まったものであり、その数は、その後、増減したことがあったが、おおむね同様であった[2]。 軍隊の統一とともに、天皇が大元帥として自らこれを統帥することが確定不動の原則として承認されることとなったが、とりわけ、明治15年(1882年)1月4日の軍人勅諭は、このことを最も明白に宣言している[2]。朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政權を返上し大名小名其版籍を奉還し年を經すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺澤なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし ? 明治天皇、軍人勅諭
原文
現代風の表記
内容
陸海軍統帥の大権