『大日本地名辞書』(だいにほんちめいじしょ[1])は明治33年(1900年)3月に第1冊上が出版された地名辞典。日本初の全国的地誌として、在野の歴史家吉田東伍個人によって13年をかけて編纂された。
戦後により大部の類書角川書店『角川日本地名大辞典』、平凡社『日本歴史地名大系』が出た後も、冨山房により文語体、旧仮名遣のまま版を重ねている。 序言に「本書は地誌にして、其名辞の索引に便利なる体裁を取りたり、即、地名辞書といふ。」とある通り、地名についての語源や変遷だけでなく、地形や歴史などあらゆる風土的事象を扱う。寺社や河川、橋、旧跡等についても項目が立てられる。 従来の地誌と同様膨大な古典籍を引用しながらも、厳しく史料批判を加え、しばしば独自の新説を加える。 項目の末尾にはしばしばその土地を詠んだ和歌や漢詩が付される。 著者吉田東伍は越後国の地主の出で、10代より地元安田藩の地誌『安田志料』を著すなど歴史に関心を持ち、上京後は読売新聞の記者として活躍していた。 明治28年(1895年)、日清戦争の従軍記者から帰国した後、大叔父小川心斎による未完の『日本国邑志稿』を継ぐことを決意した。江戸時代には藩毎の地誌編纂は活発であったが、全国を対象としたものはなく、明治26年(1893年)には国による『皇国地誌』編纂事業も中止していた。 市島謙吉を介してその宗家市島徳次郎の資金援助を受け、根津藍染町に家を構えて写字生を置いたが、間もなく冨山房より月給を受けることとなった。本郷区千駄木町、神田区西小川町、牛込区五軒町と居宅を転々とする中、資料を帝国図書館や知人に借りるなどして独力で編纂を続けた。明治33年(1900年)刊行が開始し、明治40年(1907年)脱稿した。 10月15日には上野精養軒に大隈重信、前島密等政治家や学者150余名を集めた大日本地名辞書完成披露祝賀会を催した。 明治42年(1909年)には蝦夷部分を藤本慶祐 吉田は執筆中の明治32年(1889年)より東京専門学校講師を務め、完成後の明治43年(1910年)にはこの業績をもって文学博士に叙位された。 戦後、早稲田大学図書館に委託してあった吉田の遺稿『大日本地名辞書余材』が増補された。 吉田は当時の行政区画改変に疑問を持っており、本書も歴史的な令制国郡に依拠するが、国郡自体は明治の改変を経たものを採用している。また配列も必ずしも五畿七道の順序には従わず、独自の分類法を採る。
概要
沿革
構成
目次
上方 - 山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国・近江国・伊賀国・伊勢国・志摩国・紀伊国・淡路国
中国 - 丹波国・丹後国・但馬国・播磨国・備前国・美作国・備中国・因幡国・伯耆国・出雲国・周防国
南海 - 阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国
西海 - 豊後国・豊前国・筑前国・筑後国・肥前国・壱岐国・対馬国・肥後国・日向国・大隅国・薩摩国