大日本プロレス
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新日本プロレス」、「全日本プロレス」、あるいは「日本プロレス」とは異なります。

この項目では、1994年グレート小鹿が設立したプロレス団体について説明しています。昭和後期に梶原一騎らによって設立が計画されたプロレス団体については「梶原一騎#大日本プロレス設立計画」をご覧ください。

大日本プロレス
Big Japan Pro-Wrestling種類株式会社
略称大日本
大日
BJW
本社所在地 日本
224-0053
神奈川県横浜市都筑区池辺町4364
アムフルス3階
設立1994年12月21日
業種サービス業
法人番号4020001020768
事業内容プロレス興行
関連企画の運営
飲食店の経営
代表者代表取締役社長 登坂栄児
主要子会社四ッ葉工芸
関係する人物グレート小鹿(創業者)
外部リンクhttps://bjw.co.jp/
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代表取締役社長の登坂栄児取締役会長のグレート小鹿

大日本プロレス(だいにほんプロレス、: BIG JAPAN PRO-WRESTLING)は、日本プロレス団体
特徴

デスマッチ団体を標榜しており、派手なデスマッチを特徴としている。旗揚げ当初は試行錯誤を重ねて徐々に、デスマッチへ特化していった。その後、ストロングスタイルへ台頭を経て現在に至る。
歴史

1994年12月21日、日本プロレス及び全日本プロレス出身のプロレスラーでWAR営業部長としてフロント入りしていた小鹿信也(グレート小鹿)が、10月27日に解散した元NOW所属選手のケンドー・ナガサキらと共に設立。旗揚げ戦には元NOWの谷口裕一、元NOW代表取締役の登坂栄児がレフェリーとして参加した。さらに元UWF所属選手のブルーザー岡本、元東京プロレス所属選手の山川征二(元NOW所属選手であったが谷口や登坂と異なり東京プロレスを経由して大日本に移籍している)、生え抜き第1号となった練習生の小林洋輔が所属選手となり、I.W.A.JAPANや東京プロレスなど他団体の協力を得て陣容を整えた。

1995年3月16日、横浜文化体育館で旗揚げ戦を開催。草創期は現在も続くデスマッチ路線のほか、エースのナガサキが「打倒、ヒクソン・グレイシー」を明言して総合格闘技への進出を表明し、団体も「ハラキリ」と称してナガサキのバーリトゥード路線を支えたが、9月26日のジーン・フレージャー戦で36秒でKOされて惨敗を喫したため、バーリトゥード路線は頓挫。デスマッチを中心とした純プロレス路線に方向性を特化していった。当時は観客動員が伸び悩んだこともあり、社長の小鹿が「真FMW軍」を称して参戦していたターザン後藤との抗争アングルを展開し、現役復帰につながっている。

草創期のデスマッチアイテムとしてはFMWなどでも行われていた有刺鉄線(設立当初、大日本では「バラ線」と称していた)がメインであったが、元W★INGプロモーション所属選手のグレート・ポーゴ松永光弘中牧昭二などが参戦する様になってからは過激なデスマッチ路線に拍車がかかり、中牧が所属以前に主戦場としていたI.W.A.JAPANで頻繁に行われていた画鋲やガラスを使用したデスマッチや、松永が考案したサボテン、サソリ、ワニなどを使用した奇抜なデスマッチにファンの注目が集まった。また、若手選手の中から山川や小林、さらにI.W.A.JAPANから移籍した志賀悟などがデスマッチ路線に投じ、後に中心選手として活躍する素地を築いたと言える。また、社長の小鹿も当時50代後半に差し掛かりながら現役選手としてもデスマッチに出場し、出場時の様々なコスプレも話題になった。

1996年には後述する新日本プロレスとの抗争が勃発し、1997年1月4日の新日本の東京ドーム大会では小鹿を筆頭に5名が出場したがそれ以上の進展はなかった。話題作りの一環として7月にはクマの招聘を計画していたものの、動物愛護団体の反発により、頓挫するなど試行錯誤が続いたが、最終的にはデスマッチ路線に再び活路を見出すことになった。この間に中心選手であったナガサキや中牧が大日本を離脱して、デスマッチ路線の陣容は松永、山川、小林、WXらが中心に変わり、新たにデビューした本間朋晃葛西純が参入し、さらにアメリカのCZWと業務提携を結んで陣容を整えてきた。現在の大日本のデスマッチとして代名詞となっている「蛍光灯デスマッチ」は、この当時在籍していた本間によって考案されている。

1999年からは「大日本最侠タッグリーグ戦」を開催。2003年を最後に1度休止となるが2009年に復活。

2001年12月2日には横浜アリーナへの興行に進出。ミル・マスカラステリー・ファンクの招聘、ガラス爆破デスマッチのほか、当時、頭蓋骨骨折で長期戦線離脱していた山川の復帰戦が行われるなど、現在に至るまで最大規模の興行となっている。なお、横浜アリーナ進出に至った経緯については、当時後楽園大会が不入りが続くなど団体が崩壊寸前まで陥っていたため、それに対する「ショック療法」だったと登坂が社長就任後にこう語っている[1]。その一方、開催資金用の借入金の返済が2008年初頭までかかった。

この頃に前後して上記の選手勢に加え関本大介伊東竜二沼澤直樹ら若手選手の陣容も整ってきたことから、小鹿社長は興行に出場する機会が少なくなり、ちゃんこ屋などの副業に進出して登坂統括部長が代わって興行の現場監督的な立場として表舞台に立つ様になった。

その後は、自主興行のほかにDDTプロレスリングKAIENTAI DOJOと「天下三分の計」と称した合同興行なども行っていた。また、2007年からは「興行権付き福袋」と称して正月に興行権をファンに販売して興行を開催するという企画も実施している。

2010年に開催された設立15周年記念大会にあっては、かつてCZW軍の主要員であったニック・ゲージのみならず、欠場となったトレント・アシッドの代理としてCZWオーナーのDJハイドが参戦。


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