大政_(侠客)
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清水次郎長の配下で山本政五郎を名乗った2人の侠客のうちの1人である「小政」とは異なります。

おおまさ
大政
1873年(明治6年)前後の写真。
生誕原田 熊蔵 (はらだ くまぞう)
天保3年
1832年グレゴリオ暦
日本 尾張国知多郡大野湊
死没 (1881-02-15) 1881年2月15日(49歳没)
日本 静岡県有渡郡清水町清水湊
墓地臨済宗妙心寺派梅蔭禅寺
別名山本 政五郎 (やまもと まさごろう)
職業侠客博徒
著名な実績荒神山の喧嘩
活動拠点清水湊
身長六尺以上 (約181cm以上)
子供小三郎 (長男)
まさ (長女)
なか (次女)
親戚豊田栄次郎 (長女の夫)
豊田長吉 (長女の長男)
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大政(おおまさ)[1][2][3][4][5]村上元三小説次郎長三国志』にC水の大政(しみずのおおまさ)として登場する山本 政五郎(やまもと まさごろう、天保3年 / グレゴリオ暦 1832年 - 1881年2月15日)は、かつて実在した日本の侠客である[1][3][4]清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられ[5]、同じく次郎長配下で同姓同名の「山本政五郎」を名乗る小政(1842年 - 1874年)[6]と区別して「大政」と呼ばれる[1][3][4]。本名は原田 熊蔵(はらだ くまぞう)[3][4]
人物・来歴

天保3年、現行のグレゴリオ暦によれば1832年、尾張国知多郡大野湊(現在の愛知県常滑市大野町)の廻船問屋の長男、熊蔵として生まれる[3][4]。原田家は浄土宗洞仙寺(現在の常滑市大野町7丁目89番地)の山門前に位置していたという説がある[7]。大政は、通常であれば原田家の家督を相続し、廻船問屋の経営者になったはずの人物である[3][4]。小政について記している『はままつ百話』(静岡新聞社)でも、大政に触れて「元尾張藩足軽であった」と記すが[8]、これは誤りである[3][4]

笹川臨風は「名古屋の生れで元は田舎の力士だつた」と記し、「六尺以上」(約181センチメートル)の大男であったとする[1]。笹川によれば、小政は成人しても身長が「僅々四尺八寸」(約145センチメートル)の低身長であったとし、講談浪曲の世界では「大政・小政」と並び称せられる二人は、体格も大きく差があったとされる[1]。1860年8月2日(万延元年6月16日)、森の石松(1833年 - 1860年)が都田村の吉兵衛(1828年 - 1861年)に殺害され、1861年2月(万延2年正月)、大政は、次郎長とともに仇討を果たしたとされる[1]。石松の没後、大政は次郎長の「一の乾分」になったと伝えられる[1]


1866年5月22日(慶応2年4月8日)に起きた荒神山の喧嘩では、吉良の仁吉(1839年 - 1866年)[9]らとともに穴太徳一家と戦闘し、初陣を飾る若い小政の抜き打ちで喧嘩が開始され、大政は、敵将・門井門之助を倒したとされる[1][3][4][10]。荒神山の手打式は、明治維新後の1871年(明治4年)に行われ、その終了直後に撮影された清水一家の集合写真に大政はもちろん写っている。その前の1869年7月1日(明治2年5月22日)には、二代目お蝶が殺害される事件が起きている[3]。大政は、静岡県有渡郡下清水村上一丁目(現在の同県静岡市清水区上1丁目)の次郎長の家のすぐ近くに住んでいたという[3]

二代目お蝶の事件の翌1870年(明治3年)、清水一家の最後の事件と呼ばれる事件が起きている[2]。当時、東京相撲の玉川という力士が清水に身を寄せていたが、これは師匠に虐待されたからであったが、庵原郡江尻宿(現在の静岡市清水区江尻町)で東京相撲の興行があり、力士連中が玉川を呼び出して制裁を加え、これに激怒した次郎長を筆頭に大政ら一家は相撲場に殴り込みをかけた、という事件である[2]。力士連中は断髪して詫びを入れたが、静岡藩松岡萬が次郎長宅を訪ねて諌め、たまたま静岡にいた山岡鐵舟のもとに次郎長を連れて行った[2]。以降、次郎長一家は、富士裾野の開墾事業、横浜との定期航路線を営業する静隆社設立等の社会事業を行うようになった[2]

平井一家三代目の原田常吉(1831年 - 1915年)に中尾霞山が聞き書きした『原田常吉実歴談』(1913年)によれば、1873年(明治6年)に常吉が次郎長と赤坂宿(現在の豊川市赤坂町)での密会がきっかけになり、次郎長は平井との和解の方向を探っていた[11]。その6年後、1879年(明治12年)、愛知郡中村大字日比津(現在の名古屋市中村区日比津町)の稲葉地一家の日比津の善七(富田善七、生年不明 - 1882年)が清水一家に逗留したとき、大政は善七に、平井一家との和解の仲裁人を選んでもらうように依頼している[11]。善七は「津坂音吉以外にはない」と津坂に打診、その間経緯があって、相の川平三、斉藤善五郎、津坂音吉の3人が立って、1880年(明治13年)6月15日、清水一家と平井一家の手打式が浜松宿(現在の浜松市)の料亭で開かれ、大政は次郎長とともに出席、平井側は初代の小中山七五三蔵(1809年 - 1899年)、二代目の雲風亀吉こと平井亀吉(1828年 - 1893年)らが出席して、和解は成立したという[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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