大手町_(広島市)
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大手町
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
日本
都道府県 広島県
市町村 広島市
中区
人口[1]
 ? 合計5,108人
等時帯UTC+9 (JST)
郵便番号730-0051
市外局番082

大手町(おおてまち)は、広島市中区の町名。一丁目から五丁目まである。郵便番号は730-0051(広島中央郵便局管区)。世界遺産の原爆ドームも、大手町に位置する大手町一丁目(旧町名・細工町)の元安橋東詰に現場保存されている旧「広島市道路元標」(奥)とかつて元標所在地であったことを説明する碑(手前)
地理

広島市中心部、元安川国道54号鯉城通り)に挟まれた東西200-350m、南北1.8kmの南北に細長い町域を持つ。北から1丁目、2丁目、平和大通りを挟んで3丁目、4丁目、国道2号を挟んで5丁目となる。橋で言うと、相生橋相生通り)から川下に向かって、平和大橋平和大通り)、新明治橋国道2号)を経て、南大橋駅前通り)までとなる。

広島市の中心・紙屋町交差点から見ると、南西角にあたる。ただし、紙屋町交差点と本通りの間の3ブロックは紙屋町の町域となっているため、大手町は紙屋町交差点に接していない。
概要

町域の中では北側の部分となる1丁目に
世界遺産原爆ドームがある。原爆爆心地である島病院(現・島内科医院)も大手町1丁目にある。

文字通り広島市の中心部にあり、特に国道2号線以北の1?4丁目地区はオフィス街・ショッピング街として発展している。広島市最大の繁華街である紙屋町地区も、面積で言えば大手町の町域を多く含んでいる。特に大手町1・2丁目付近はパソコンショップやアニメ、同人誌、メイド喫茶、コミック関連の店舗が集中しており、さながら「広島の秋葉原」という趣きがある。

元安川河畔は、平和記念公園の対岸ということもあって、遊歩道として整備されており、ジョギングや散歩のコースとして人気がある。

南北通りとして鯉城通り(電車通り)より一つ西に位置し、やや道幅の狭い大手町筋は現在は「裏通り」のイメージが強いが、かつてはこの地区のメインストリートであった(#歴史参照)。

国道2号線を隔てた南部の5丁目地区(旧町名では「9丁目」)は、北部の3・4丁目地区とは街並みの趣きが異なり、オフィスビル以外に住居用マンションが比較的多く立地し住宅街としての性格が強い。この地区は一般的には「鷹野橋(たかのばし)」と呼ばれ、商店街(鷹野橋商店街)も存在する。


爆心地の島内科医院

爆心地の説明版

袋町から見た大手町

タカノ橋

隣接している地区

隣接する町域は、全て広島市中区である。

北側 -
基町

東側 - (北から)紙屋町袋町、小町、国泰寺町

南側 - 千田町

西側 - (元安川を挟んで、北から)中島町加古町住吉町羽衣町

歴史正保城絵図『安芸国広島城所絵図』

現在の大手町地区に人々が住み着き町が形成された時期は、毛利氏による広島城築城まで遡ることができる。この地区は広島城に南接(外堀(現在の広電本線の通り)の南側に位置)し、東側には築城のさい資材運搬のため開削された西堂川(現在の鯉城通り)が流れ、また西には当時の陸上交通のメインルートである河川(元安川)を控えており、町の発展にとって有利な条件が揃っていた。
藩政時代

藩政時代にはこの地区を横断して西国街道(現在の本通)が通り、元安橋東詰は城下の交通の中心として里程の基点となる(これが明治以降「広島市里程元標」⇒「広島市道路元標」へと継承される)とともに制札場として情報交換の場に利用された。城の南西隅の「櫓下」(現在の相生橋東詰北側)から元安橋にかけての元安川東岸には広島藩の船着場や米蔵・材木蔵・木売所が設置され、特に細工町(旧町名)を中心に藩御用達の薬店・米屋・両替屋などが店や邸宅を構えていた。また東では西堂川に沿って街並みが南へ延びていった[注 1]。これらの町は広島藩により5つの町組の一つ「白神組」にまとめられていた。

ところで現・大手町地区のうち築城時に陸地として存在していたのは現在の一・二丁目にほぼ相当する地域のみであり、それより南は遠浅の広島湾に没していた。現在の三-五丁目は藩政期の埋め立て(1699年)により造成された新開地で、これらは町人町としては扱われず「六丁目村」と称され前記の白神組とは区別されていた。
金融街の盛衰大正末期から昭和初期にかけての広島県商品陳列館(のちの産業奨励館) / 猿楽町(現・大手町一丁目)のランドマーク的建築物で現在の原爆ドーム。

画像外部リンク
広島県立文書館所有の戦前の絵葉書。
[絵葉書](広島市大手町通)
[絵葉書](広島名所図絵(其廿二)広島郵便局) 戦前、細工町に所在していた広島郵便局。この界隈のランドマーク的建造物で、写真左の道に進むと元安橋に至る

画像外部リンク
アメリカ国立公文書記録管理局が所有する米軍撮影写真。
Hiroshima aerial A3387 爆心地周辺。写真中央やや下を横断する道が大手町通り、最下の道が鯉城通りで右を縦断する道が相生通り
Hiroshima aerial A3392 爆心地周辺。写真中央左から右下に伸びる道が大手町通り。
Hiroshima aerial 3 Aug 46 A3467 1946年8月3日つまり被爆1年後に基町から南方向を撮影。

明治時代になると大手町地区には多くの銀行が立地され、広島市初の金融街が形成された。主要な金融機関は現在の鯉城通り(電車通り)より一つ西に入った大手町筋(白神通り)に集中し、本通近辺には広島商工倶楽部(現在の商工会議所 / 旧横町)や広島郵便局(旧細工町)が設置、また郵便局の前には1989年以降「広島市道路元標」(1952年まで広島からの里程の起点として用いられ、原爆被災後は約30m西の元安橋東詰に移転し現在に至る。画像参照)が置かれた。北には広島城を接収した陸軍駐屯地を控え、また西は元安川を挟んで当時広島随一の繁華街で広島市役所が立地する中島地区(現在の平和公園)にも近接していたこともあり、この町は藩政期以来の広島経済の中心としての地位を守っていた。


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