「マグナ・カルタ」のその他の用法については「マグナ・カルタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(羅: Magna Carta、羅: Magna Carta Libertatum、英: the Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章である。イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した[1]。1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本
政治シリーズ記事からの派生
君主主義
種類世襲君主制 ・ 選挙君主制
絶対君主制 ・ 制限君主制 ・ 立憲君主制 ・ 非公認君主制
目次
1 概要
2 未知の憲章
3 貴族条項
4 バロン戦争へ
5 マグナ・カルタの構成
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
ブーヴィーヌの戦いが制定のきっかけである。1214年7月にフランスが勝利したので、ジョン王はさらに軍隊を確保しなくてはならなかった。そこでイングランド貴族がそれぞれに抱えていた不満を救済するよう強く求めた。さしあたりヘンリー1世の戴冠証書(Charter of Liberties 1204年、ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教(John de Gray 1215年である。1月6日ロンドンで、4月26日ノーサンプトンで、貴族はジョン王と会談した。この間に両派は教皇庁に訴えることができた。貴族はジョン王の裁決に従うよう言い渡された。そしてやはり、ノーサンプトンでの交渉は決裂したのである。5月5日ジョン王側で貴族の怒りが爆発した(臣従誓約の破棄)。一週間後、ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発した。貴族はジョン王の廃位を求めて結託した。5月17日ロンドン市が同調し、貴族を迎え入れた。ジョン王はロンドンの西にあるウィンザー城に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター(Robert Fitzwalter 経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は神と教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。三ヶ月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、三ヶ月すぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは十州で自分たちの州長官を任命した。 教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスのルイ王太子に王位を提供しようとした。
概要
未知の憲章
貴族条項
バロン戦争へ