大憲章
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「マグナ・カルタ」のその他の用法については「マグナ・カルタ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

マグナ・カルタまたは大憲章(だいけんしょう)(: Magna Carta、: Magna Carta Libertatum、: the Great Charter of the Liberties、直訳では「自由の大憲章」)は、イングランド王国においてジョン王により制定された憲章である。イングランド国王の権限を制限したことで憲法史の草分けとなった。また世界に先駆け敵性資産の保護を成文化した[1]1215年に作られた、マグナ・カルタの認証付写本

政治シリーズ記事からの派生
君主主義

種類世襲君主制 ・ 選挙君主制
絶対君主制 ・ 制限君主制 ・ 立憲君主制 ・ 非公認君主制  ・ 摂政
概念君主
君主制
王権神授説
天命
歴史マグナ・カルタ
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明治維新
天皇制
ドイツ帝国の成立
辛亥革命
ロシア革命
ドイツ革命
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スペイン内戦
ルーマニア王国の崩壊
イタリア王国の崩壊
スペインの王政復古 (1975年)
イラン革命
カンボジア王国 (1993年-現在)
ネパール内戦
関連項目貴族制
専制政治
トマス・ホッブズ
寡頭制
右翼
王位請求者
王政復古
王党派
白旗
トーリー主義
Portal:政治学











目次

1 概要

2 未知の憲章

3 貴族条項

4 バロン戦争へ

5 マグナ・カルタの構成

6 脚注

7 参考文献

8 関連項目


概要

ブーヴィーヌの戦いが制定のきっかけである。1214年7月にフランスが勝利したので、ジョン王はさらに軍隊を確保しなくてはならなかった。そこでイングランド貴族がそれぞれに抱えていた不満を救済するよう強く求めた。さしあたりヘンリー1世の戴冠証書(Charter of Liberties)の写しが要求の出発点となった。この12項目からなる「未知の憲章(The Unknown Charter)」は、現在大英図書館に所蔵されている。 マグナ・カルタはラニーミードにおいて1215年6月19日に制定され、法の支配を確認した。教皇インノケンティウス3世の勅令により無効とされたものの、その後、数度改正されている(英語版を参照されたい)。 国王と議会が対立するようになった17世紀になり再度注目されるようになった。マグナ・カルタの理念は、エドワード・コーク卿ほか英国の裁判官たちによって憲法原理としてまとめられた。マグナ・カルタは清教徒革命アメリカ独立戦争の根拠となった。19世紀末に「未知の憲章」がジョン・ホラース・ラウンド(J. Horace Round)により再発見された[2]2009年マグナ・カルタはユネスコの『世界の記憶』に登録された。 1225年に作られたヘンリー3世のマグナ・カルタの一部は、現在でもイギリスにおいて憲法を構成する法典の一つとして効力を有する。
未知の憲章

1204年、ジョン王フランスフィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失った。1214年ジョン王が戦を再び仕掛けて再び敗戦した(ブーヴィーヌの戦い)。この戦いは教皇派と皇帝派の争いという側面をもっていたが、7月27日フランスの勝利に終わった。ジョン王のさらなる徴兵に対して貴族はいきり立った。帰国したカンタベリー大司教(John de Gray)は彼らに対話で解決するよう働きかけたが10月18日に死んだ。貴族側で「未知の憲章」が作成され、年内から交渉に用いられた。貴族らは雑多で、しかし具体的な要求を掲げた。デュー・プロセスの保障、相続税額の具体化、ユダヤ人に対する負債の猶予、軍役の範囲をノルマンディーとブルターニュまでとすること、そして御料林という直轄領に関する事項であった。12項目のうち3項目は御料林に関係した。まず、ヘンリー2世の即位年から御料林法で設置されたものは、根拠法の適用を受けないものとした。1135年以降、その根拠法が適用されるのと等しい状態にあった土地も、適用を免れるものとした。御料林法が引続き適用される地域でも効力が制限されることとなった。いかなる人も御料林に関して生命を奪われてはならないし、手足を切断されてはならない。
貴族条項

1215年である。1月6日ロンドンで、4月26日ノーサンプトンで、貴族はジョン王と会談した。この間に両派は教皇庁に訴えることができた。貴族はジョン王の裁決に従うよう言い渡された。そしてやはり、ノーサンプトンでの交渉は決裂したのである。5月5日ジョン王側で貴族の怒りが爆発した(臣従誓約の破棄)。一週間後、ジョン王は貴族の所領を没収する勅令を発した。貴族はジョン王の廃位を求めて結託した。5月17日ロンドン市が同調し、貴族を迎え入れた。ジョン王はロンドンの西にあるウィンザー城に籠もった。貴族は「未知の憲章」よりも遥かに長大な「貴族条項(The Articles of the Barons)」を編んだ。そこでは諸権利が封建的慣習にもとづく強制手段により担保されていたが、聖職者はこの点に反対であった。さらにそこへはロバート・フィッツウォルター(Robert Fitzwalter)を長とする25人の貴族が代表者として選出されることが盛り込まれた(いわゆる保証条項の一部)。6月10日から島のように開けたラニミードに天幕を張って最終折衝が行われ、19日にマグナ・カルタという妥協が成立した。マグナ・カルタは御料林について、各地方の騎士たちが問題地域の慣習を調査することを規定したにとどまった。
バロン戦争へ

経過報告を受けていたローマ教皇インノケンティウス3世が、6月下旬に貴族条項ないしマグナ・カルタの廃棄を命じた。イングランド国王は教会以外の約束に縛られるものではないとして、キリスト教の復権を図った。令状は9月下旬に王と貴族の双方へ届けられた。三ヶ月の郵送期間には既得権が成立していた。マグナ・カルタはジョン王にロンドンを明け渡すことを定めていたが、三ヶ月すぎてもロンドン市民は行政長官の支配を許さなかった。例の25人がロンドンに軍を保持していたのである。かたや25人の代表団はマグナ・カルタによって所領の自治を実現した。彼らは十州で自分たちの州長官を任命した。

教皇の支持を得たジョンが再び争うと、貴族らはフランスルイ王太子に王位を提供しようとした。


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