大慧宗杲
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大慧宗杲
元祐4年 - 隆興元年8月10日
1089年 - 1163年9月9日

号妙喜・雲門
諡号普覚禅師
尊称仏日大師
生地宣州寧国県
没地臨安府径山寺
宗旨臨済宗
宗派楊岐派


兜率従悦(黄龍派)

圜悟克勤

洞山道微

?潭文準

弟子仏照徳光
著作『大慧普覚禅師書』『正法眼蔵』『大慧語録』『大慧武庫』[1]
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大慧宗杲(だいえ そうこう、だいえ しゅうこう)は、中国代の臨済宗楊岐派第5代の[1][2]諡号は.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}普覚禅師(ふかくぜんじ)、賜号は仏日大師、大慧禅師、は曇晦、号は妙喜(みょうき)・雲門[3]。俗姓は奚(けい)。公案を用いて悟りに至る「看話禅」(公案禅)の大成者として知られる[3]
生涯

宣州寧国県の出身[1]。16歳で出家し、洞山道微(とうざんどうび)、?潭文準(ろくたんぶんじゅん)に参禅し、東京(トンキン)にある天寧寺で兜率従悦(とそつじゅうえつ)(黄竜派)に学んだあと、圜悟克勤(えんごこくごん)のもとで悟りを開き嗣法した[2][3]紹興7年(1137年)に臨安径山能仁禅院五山の1つである径山寺(きんざんじ))に住した[1][3]趙州無字公案参究を主張して、曹洞宗真歇清了(しんけつせいりょう)を黙照禅として批判し、多くの士大夫が帰依した[2]。また、楊岐派のなかに大慧派を形成した(禅林墨跡#大慧派を参照)。

その後、張九成の帰依を得たことからその政争に連座して、衡山(現在の湖南省衡陽市)に、またのちに梅州程郷県に流罪となり、衡山では『正法眼蔵』を著す[1][2][3]。69歳の時に許されて、径山に再住し、看話禅公案禅)を挙揚した[1][3]。径山の他に阿育王山(あいくおうざん)にも住し、天子士大夫にも支持を得て、門弟は2千人を超えたという[2][4]。なお、「看話禅」の語は、もとは、南宋宏智正覚(わんししょうがく)が大慧宗杲の禅風を評したものである[4]

隆興元年8月10日1163年9月9日)、示寂[3]。著書に『大慧語録』『大慧武庫』などがある[1]。『大慧語録』30巻は大蔵経に編入された[3]
真の禅法をめぐって

曹洞宗に属した宏智正覚と、真の禅法をめぐって激しく対立した。宗杲は、公案を用いることによって言語による思考に大きな疑問を抱えつつ坐禅し、その疑問を打ち破ることにより悟りへと向かうという、臨済宗の禅法を正しいものと認めた。対立する正覚は、悟りという目標を設定することによって無明と悟りという二元論的構造が生じることを避けるために、坐禅すること自体が坐禅の目的であるような自己完結的な禅法の中で本来具有している仏性が顕れるとしたので、宗杲はこれを「黙照禅」と呼んで批判した。

この臨済宗と曹洞宗の理論的な対照は、宗杲と正覚の当時から現在の日本にまで継続している。しかし当時の中国社会では、宗杲の理論が支持を受け、臨済宗が大いに隆盛することとなった。

日本の南北朝時代の臨済僧中巌円月は、東陽徳輝を通じて大慧宗杲の法に連なる。
出典^ a b c d e f g 岩波仏教辞典 1989, p. 529.
^ a b c d e コトバンク「大慧宗杲」世界大百科事典.
^ a b c d e f g h コトバンク「大慧宗杲」ニッポニカ.
^ a b コトバンク「看話禅」ブリタニカ.


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