大恐慌
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この項目では、1930年前後に起こった世界恐慌について説明しています。

1930年代以前に「大恐慌」と呼ばれていた世界経済危機については「大不況 (1873年-1896年)」をご覧ください。

第二次世界恐慌とも呼ばれる2010年前後に起こった世界金融危機については「世界金融危機 (2007年-2010年)」をご覧ください。

1936年3月にドロシア・ラングFSAプロジェクトの一環としてカリフォルニアにおいて撮影した『移民の母』。7人の子供を抱えて極貧生活を送っていたこの32歳の母親は[1]、後年にフローレンス・オーウェンズ・トンプソン(英語版)と判明した。1910年から1960年までの米国の年間実質GDP(世界恐慌(1929年?1939年)をハイライト表示1910-60年のアメリカの失業率、世界恐慌(1929-39年)の年をハイライト表示

世界恐慌(せかいきょうこう)または大恐慌(だいきょうこう、: The Great Depression)とは、1930年代アメリカを皮切りに世界的に起こった深刻な経済恐慌のことである。世界恐慌の時期は国によって異なるが、ほとんどの国では1929年に始まり、1930年代後半まで続いた[2]。それは20世紀の中で最も長く、最も深く、最も広範な不況であった[3]。世界恐慌により日本国内で起きた不況のことを昭和恐慌という。世界恐慌は、世界経済がいかに激しく衰退するかの例として一般的に使われている[4]
概要

世界恐慌は、1929年9月4日頃から始まったアメリカの株価の大暴落に端を発し、1929年10月24日の株式市場の暴落(通称暗黒の木曜日)で世界的にニュースになった。1929年から1932年の間に、世界の国内総生産 (GDP) は推定15%減少した。それに比べて、2008年から2009年にかけての大不況 (: Great Recession) 期では世界のGDP減少は1%未満であった[5]。一部の経済は1930年代半ばまでに回復し始めた。しかし、多くの国では、世界恐慌の悪影響は第二次世界大戦が終結するまで続いた[6]

世界恐慌は、豊かな国と貧しい国の両方に壊滅的な影響を与えた。個人所得、税収、利益、物価は下落し、国際貿易は50%以上減少した。アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した[7]

世界中の都市、特に重工業に依存している都市は大きな打撃を受けた。多くの国で建設が事実上停止された。農村地域は、農作物の価格が約65%下落したために苦しんだ[8][9][10]。鉱業や伐採などの第一次産業に依存している地域が最も被害を受けたのであった[11]
世界恐慌以前の世界情勢
アメリカの好景気と投機ブームダウ平均株価の指数を表すグラフ

1920年代、アメリカは住宅と耐久消費財の需要を背景として、空前の好況にあった[12][13]。これらの需要は1927年にピークを迎えたが、1924年以降流入した投資資金によって株価は上昇を続け、ダウ平均株価は1924-29年の5年間で5倍に高騰した[14]

この時期の投機熱を象徴するものの一つに、中小投資家の増加がある。複数の小規模資金をまとめて大口化できる投資信託という仕組みは、それまでよりも広い層の人々を投資の世界に呼び込んだ[15]

また、1920年代半ばの、フロリダの不動産バブルもその一つである。気候の良いリゾート地であるフロリダの地価上昇に伴い、人が住むには適さない土地までが取引され、さらに値上がりは続いていった。なお、この土地バブルは1926年のハリケーン上陸で崩壊したが、ニューヨークの株価に与えた影響は限定的だった[16]
アメリカとヨーロッパとの関係

第一次世界大戦を通して、アメリカは連合国に多額の貸付を行い、貿易額の黒字も相まって、純債務国から純債権国に転じていた[17]。また、1920年代もアメリカはヨーロッパへの投資を拡大しており、主要な資金提供国となっていた[18]。1927年、合衆国での新外国普通株発行額はおよそ183億ドルであったが、翌年688億ドルに跳ねあがっている[19]。しかし、アメリカのバブルによる国内利回りの上昇の影響により、資本流出は減少し、新外国普通株の発行額は1929年には50億ドル強に落ち込んでしまう[18][19]

なお、1927年ジュネーブで行われた世界経済会議では[20]、恐慌に備えて商業・工業・農業に関する多くの決議が審議・採択されている。商業では関税引き下げ、工業ではコストダウン目的の産業国有化、独占禁止と生産調整の国際協定、農業では方法の改良と資金の貸付について議論された。しかし、決議そのものは各国議会から無視されてしまっていた。
1929年10月

1929年6月からヤング案成立に向けてハーグで国際会議がスタートした。

1929年7月30日の報道によると、ニコライ2世の親族らが、保有する財産600万ドルを返還させるためにアメリカ中の銀行を訴える構えだという。他にもロシア貴族について何人もの遺族たちが、総額で1億ドルほどを保有し、返還を請求しているという見出しであった。記事によると請求されている資産のうち、およそ500万ドルがギャランティ・トラスト・カンパニーに、また100万ドルがナショナル・シティー銀行に、ロシア革命のときから不法に預けられているものである[21]

1929年8月9日、連邦準備制度公定歩合(政策金利)を6%に引き上げた。同年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1か月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディは、ウォール街の有名な靴磨きの少年が、投資を薦めたことから不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと述べた[注釈 1]

1929年9月26日、イングランド銀行が金利を引き上げ、アメリカの資金がイギリスへ流れた。ニューヨークウォール街の群衆

そのような状況の下1929年10月24日(木曜日)10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出た。ウォール街周囲は不穏な空気に包まれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。

シカゴバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれた。翌25日(金曜日)の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。

週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が1日で13%下がるという暴落が起こり、さらに10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態となった。当日の出来高は1638万3700株に達し[注釈 2]、株価は平均43ポイント[注釈 3]下がり、9月の約半分になった。1日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になった[注釈 4]

10月29日(火曜日)は後に「悲劇の火曜日 (英語: Tragedy Tuesday)」と呼ばれた。投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めた。1928年アメリカ市場の投信株の取引高は1万株しかなかったが、翌年に11万株を超えた[15]。そして、アメリカ合衆国の経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も、連鎖的に破綻することになる。


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