大庭王(おおにわおう/おおばおう、生年不詳 - 弘仁9年9月26日(818年10月29日))は、奈良時代から平安時代初期にかけての皇族。官位は従四位上・刑部卿。目次 桓武朝の延暦6年(787年)三世王の蔭位により無位から従五位下に直叙される。その後しばらく散位であったが、延暦8年(789年)皇太后・高野新笠の、延暦9年(790年)には皇后・藤原乙牟漏の崩御に伴って、それぞれ山作司を務めている。 延暦10年(791年)侍従に任ぜられると、少なくとも嵯峨朝初頭までこれを務める傍ら、左大舎人頭・中務大輔・内匠頭などを兼ね、延暦23年(804年)までに従四位下に至る。 平城朝での活動記録は残っていないが、嵯峨朝に入ると弘仁元年(810年)9月の薬子の変後に再び大舎人頭を兼帯し、11月には従四位上に昇叙されている。弘仁3年(812年)刑部卿に任ぜられた。 弘仁9年(818年)9月26日卒去。最終官位は刑部卿従四位上。 『六国史』による。 系譜は明らかでないが、娘が左大臣・藤原冬嗣の室となっている。
1 経歴
2 官歴
3 系譜
4 参考文献
経歴
官歴
延暦6年(787年) 正月7日:従五位下(直叙)
延暦8年(789年) 12月29日:山作司(皇太后・高野新笠崩御)
延暦9年(790年) 閏3月11日:山作司(皇后・藤原乙牟漏崩御)
延暦10年(791年) 正月28日:侍従
時期不詳:兼讃岐守
延暦16年(797年) 2月15日:兼左大舎人頭
時期不詳:正五位下
延暦18年(799年) 6月16日:中務大輔
時期不詳:従四位下
延暦23年(804年) 2月18日:内匠頭
延暦25年(806年) 正月28日:兼上野守
大同5年(810年) 9月17日:兼大舎人頭。11月22日:従四位上
弘仁3年(812年) 8月1日:刑部卿
弘仁9年(818年) 9月26日:卒去(刑部卿従四位上)
系譜
参考文献
宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫、1995年
森田悌『日本後紀 (上)』講談社学術文庫、2006年
更新日時:2019年3月24日(日)08:30
取得日時:2020/09/14 09:05
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