大庭二郎
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2016年3月)

この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2020年5月)

大庭 二郎

生誕1864年7月26日
長門国長州藩
死没 (1935-02-11) 1935年2月11日(70歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴1886 - 1926
最終階級 陸軍大将
テンプレートを表示

大庭 二郎(おおば じろう、元治元年6月23日1864年7月26日) - 昭和10年(1935年2月11日)は、日本陸軍軍人陸士旧8期陸大8期(優等)。栄典は従二位勲一等功二級。最終階級は陸軍大将
経歴

長州藩士(現在の山口県青海島)、大庭此面の長男として生れる。明治19年(1886年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、陸軍少尉任官。明治25年(1892年)12月、陸軍大学校(8期)を優等で卒業した。参謀本部出仕、兵站総監部副官、参謀本部第1局員を経て、明治28年(1895年)から同33年(1900年)までドイツに留学し、その後、陸大教官、参謀本部員兼山縣有朋元帥副官、大本営参謀などを歴任した。

日露戦争では、第3軍参謀副長として出征し、旅順攻囲戦に参戦した。明治38年(1905年)1月、後備第2師団参謀長(朝鮮駐剳軍)となり、朝鮮北部の作戦に従事した。その後、近衛歩兵第2連隊長、陸軍戸山学校長などを経て、明治43年(1910年)11月、陸軍少将に進級し、陸軍歩兵学校長、歩兵第11旅団長を歴任。第一次世界大戦では観戦武官としてロシア軍に従軍した。大正4年(1915年)2月、陸軍中将となり、第3師団長を拝命しシベリア出兵に従事。さらに、軍事参議官朝鮮軍司令官を歴任。1920年12月28日、陸軍大将[1]となり、軍事参議官、教育総監を勤め、大正15年(1926年)3月に予備役に編入された。
親族

次男の大庭小二郎は陸軍大佐、三男の大庭春雄五・一五事件で有罪となった海軍少尉。
栄典
位階


1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[2] [3]

1891年(明治24年)12月28日 - 従七位[2][4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef