大平透
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

大川透」とは別人です。

おおひら とおる
大平 透
プロフィール
本名大平 透[1]
性別男性
出身地 日本東京府荏原郡蒲田町
(後の東京市蒲田区、現:東京都大田区[2]
死没地 日本
生年月日 (1929-09-24) 1929年9月24日
没年月日 (2016-04-12) 2016年4月12日(86歳没)
血液型O型[3][4]
職業声優俳優
事務所大平プロダクション
81プロデュース(最終所属)[5]
配偶者あり(2000年死別)
公式サイト大平透 - 81プロデュースの公式サイト
公称サイズ(時期不明)[7]
身長 / 体重180[6] cm / 80 kg

声優活動
活動期間1960年代 - 2015年
ジャンルアニメゲーム吹き替えナレーション
俳優活動
活動期間1952年 - 2015年
ジャンルテレビドラマ映画
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

大平 透(おおひら とおる、1929年昭和4年〉9月24日[1][8][9] - 2016年平成28年〉4月12日[10][8])は、日本声優[11]俳優[11]アナウンサー大平プロダクション代表[11]日本俳優連合副理事長。最後は81プロデュースに所属していた[5]クリスチャン日本基督教団信徒[11]
生涯
生い立ち

東京府荏原郡蒲田町(後の東京市蒲田区、現・東京都大田区)出身[2]日本国有鉄道を務めていた父が、タイヤ修理工場、雑貨商を営むことなった関係から生後8か月でインドネシアに移住し、5歳まで姉と共にジャワ島バンドンで過ごす[2][9][8]。帰国後は蒲田区で過ごしたが、住んでいた家屋が防火帯工事に伴う立ち退き対象にされたため、これを契機に疎開を兼ねて父親の故郷である観音寺市に移り住む[2]

小学校卒業する頃は父のような技術者になりたいと考え、工業高校への進学を希望していたが、周囲の勧めもあり、東京府立第二十二中學校(後の東京都立城南高等学校[注釈 1]、現:東京都立六本木高等学校)に進学[8]。手先が器用で中学時代は美術は秀をもらい、終戦直後の中学4年生の時に東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部[8]洋画科を受験するも落ちた[2]。その事が「声優」へのプロセスとなっていたと振り返っている[2]。終戦後は東京に一家で戻り、同高校を経て、露天商、闇屋の手先のようなバイトをしながら、明治大学政治経済学部[9]に進学[2][8]東京六大学の野球選手を夢見ていたこともあり[8]明治大学硬式野球部で活躍するが、肺結核に罹患したため、3年間休学を余儀なくされる[13]。病も癒えて復学しようと考えていたところ、キリスト教の教会を八王子市のほうに建てて、牧師を自費で雇って教会を守ってきたというような熱心なクリスチャンであった父の勧めで受けたオーディションに合格したことで、1952年に「ルーテル・アワー(日本ルーテル・アワー)」専属アナウンサーでデビュー[4][13]。大学は夜学に転籍して、仕事と並行しながら1954年に卒業した[4][8]。その後、フリーアナウンサーを経て、ニッポン放送開局と同時にフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターとして、週2本のドキュメンタリーを制作していた[9]
キャリア

1955年、ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)開局と同時にTBS放送劇団へ入団し[9]フライシャー・スタジオ制作短編アニメシリーズ『スーパーマン』を再編集した『まんが・スーパーマン』で日本のテレビ史上初の日本語吹き替えを行う[2][13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:149 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef