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出典検索?: "大平晋也"
おおひら しんや
大平 晋也
別名義原田 慎之介
生年月日1966年
出生地 日本・愛知県名古屋市
血液型AB型
職業
アニメーター
アニメーション監督
アニメーション演出家
ジャンルテレビアニメ、アニメ映画
活動期間1985年 -
事務所スタジオブレイク
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大平 晋也(おおひら しんや、1966年 - )は、日本のアニメーター、アニメ監督、演出家[1][2]。愛知県名古屋市出身[3]。
一時期廃業して郷里に戻って家業に就いていたが、その後復帰して名古屋に在住したままアニメーターとして活動を続けている[2][4]。 愛知県立小牧高等学校時代に美術部でペーパーアニメの自主制作を手伝う[3]。周囲に金田伊功ファンが多く、その影響で、彼の流れを汲むアニメーターの1人、山下将仁の大ファンになる[2][注 1]。最初はアニメーターになるつもりはなかったが、家の事情で進学が難しく、卒業後の進路をどうしようかと考えていた時にアニメ雑誌『アニメージュ』のアニメーター募集広告を目にして応募[注 2]、卒業後、すぐにスタジオぴえろに入社する[2][4]。 動画を3年経験したら原画に昇格させてもらう約束だったが、原画を描きたくて無理を言って半年で原画を描かせてもらう[4]。そのことで上の方からクレームが来たことに反発し、わずか8カ月でぴえろを辞める[3][4]。以後はフリーとしてさまざまな作品に関わるようになる[2]。その当時は、影響を受けた山下将仁も在籍していたスタジオNo.1系の派手なメカアクションを得意とする「メカアニメーター」として名を馳せたが、山下の物真似だとして周囲から不評だったため、路線変更をする[2]。 1988年、20代前半でアニメ映画『AKIRA』の制作に参加[3]。映画化の話を聞きつけ、自ら原画を持ち込んで大友克洋監督に見てもらい、参加を取り付けた[2]。 1991年、『夢枕獏 とわいらいと劇場』の「骨董屋」で初めて監督を務める。『AKIRA』への参加をきっかけにリアル志向や「生々しいものを描きたい」という欲求持つようになっていたため、この作品の頃から独特な人物作画やエフェクト作画にこだわる実験的な作風に変わる[2]。 映画『ユンカース・カム・ヒア』のパイロットフィルムで初めてキャラクターデザインと作画監督を務める[4]。しかし、3分の映像に半年もかけてスケジュールを大幅にオーバーしたために降板させられ、本編はエンディングを少し手伝っただけだった[5]。 1994年、『THE八犬伝[新章]』第4話「はまじ再臨」の演出を手掛ける[5]。この作品で業界を辞めようと考えていたため、最後に一花咲かせようと思い、当時、頭角を現しつつあった湯浅政明に声をかけて参加してもらった[5][注 3]。それまでのエピソードとは大幅に異なるビジュアルを採用[7]。その映像のリアルさ、生々しさ、表現は日本のアニメ史においてトップクラスに位置するものであり、比肩するもののない異色作としてアニメファンだけでなく業界内でも話題となり、多くのクリエイターがこの作品の出現に衝撃を受けた[2][7]。完成後、ある程度の達成感を感じた大平は、一旦業界を引退して実家に戻り、家業に就いた[4][8]。 数年のブランクを経て、1990年代の終わり頃にPlayStation 2向けゲーム『BLOOD THE LAST VAMPIRE』のアニメパート制作に参加し、アニメーターとして業界に復帰[8]。以降は名古屋に在住したまま、劇場作品を中心に仕事をするようになる[4]。 日本のアニメーションのリアル系の作画を語る上で欠かせない人物[2]。リアルで生々しい動作にこだわった人物作画や独特なエフェクト作画による表現が高く評価されている[9]。 他の追随を許さない唯一無二のアニメーションで、『AKIRA[注 4]』、スタジオジブリの『紅の豚[注 5]』『千と千尋の神隠し[注 6]』『ハウルの動く城[注 7]』『風立ちぬ』、Production I.Gの『イノセンス[注 8]』や『ももへの手紙』、STUDIO 4℃の『鉄コン筋クリート[注 9]』をはじめ、多くの大作で重要パートを任される[2][4][7]。クエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル Vol.1』のアニメパート[注 10]や『アニマトリックス』(「Kids Story」)、『ブレードランナー ブラックアウト2022』など、海外作品からのオファーを受けることも多い。 アニメーター休業期間を除き、1991年の『おもひでぽろぽろ』から、スタジオジブリの劇場作品には継続的に参加している。宮崎駿監督作品への初参加は1992年の『紅の豚』から[4]。また、宮崎作品に参加する時は宮崎本人からレイアウト用紙に鉛筆で書いた直筆の依頼の手紙をもらうという[3][4]。 髪の毛や布やたくさん生えた腕などの手のかかる作画や水や炎や煙などのエフェクトといった普通のアニメーターなら嫌がるような一番面倒くさいパートを喜々として引き受ける[4]。 「形」については自由にとらえたいという気持ちが強く、それはエフェクトに対する感覚とも似ていて、リアルさよりも動きの気持ちよさを優先させる[5]。
来歴
人物・作風