大師(だいし)は、中国・日本において、高徳な僧に対する尊称。朝廷から勅賜
の形で贈られる事が多く、多くは諡号(本人の死後に送られる尊称、おくりな)である。大師という言葉は梵語の「シャーストリ」を漢訳したもので、他に天人師、善知識、大導師などとも訳される。経典の用法として、釈迦を「釈迦大師」と呼ぶ例や、仏法そのものを大師と呼ぶ例がある[1]。 北宋初の賛寧による『大宋僧史略』巻下「賜師号」によれば、その始まりは、唐の後半、懿宗皇帝の咸通11年(870年)、旧暦11月14日の延慶節の談論の際に、左街の雲に「三慧大師」、右街の僧徹に「浄光大師」の師号を賜った時であるとする。つまり、それ以前には法師号や禅師号しか無かったとする。その後、唐末に大師号と紫衣が濫発されたため、後梁の龍徳元年(921年)に禁止令が発せられたという。宋初においても、太平興国4年(979年)まで、大師号が下賜されることは無かった、と結んでいる。 但し、少なくとも、隋の煬帝が晋王時代に、智から菩薩戒を受けた時に「智者」の大師号を賜った例や、大中2年(848年)に唐の宣宗が廬山の慧遠の400年忌に弁覚大師を諡号した記録があるなど[1]、実際にはその起源はそれ以前に遡るものと考えられる。また、達磨大師、善導大師など、朝廷から下賜されたものではないが、私的な敬称として有名となっている大師号もある[1]。 日本においては清和天皇の貞観8年(866年)7月14日、最澄に「伝教」、円仁に「慈覚」の大師号が宣下されたのが初例である[2]。天皇が宣下する位号 江戸時代以前から大師と呼ばれる18人は「十八大師」と総称され[5][6]、その中でも弘法(空海)・伝教(最澄)・慈覚(円仁)・智証(円珍)・慈慧(良源)・円光(法然)の6人は特に「六大師」と総称される[7][8]。このうち慈慧大師・元三大師の名で知られる良源は大師号の宣下を受けていないが、平安時代後期より大師として扱われることが多い。 民間では単に「大師」といった場合、特に空海(弘法大師)を指す事が多く[9]、よく「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」といわれる。 明治維新後は皇室の神仏分離の影響で、大師号宣下などの仏教への関与は行われないようになった。しかし島地黙雷を始めとする浄土真宗勢力の働きかけでこの動きは修正され、明治9年(1878年)に親鸞への大師号宣下が行われたことで、天皇による師号宣下が再開された[10]。明治16年(1883年)10月8日には「大師号国師号賜与内規」が制定され、大師号は宗名公称の宗(天台宗、真言宗、浄土宗、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗、浄土真宗、日蓮宗、融通念仏宗)の宗派の祖や中興の祖に与えられるものと定義された[2][11]。宗派からの申し入れを審査するのは内務省と定められたが、明治20年(1887年)にこの内規は廃止された[2]。これは宗派対立を防ぐため師号宣下の数を抑えたいという伊藤博文らの意向によるもので、しばらく宣下は行われなかった[12]。禅師号の宣下はその後宮内省によって取り扱われ、明治42年(1909年)の大師号宣下の再開以降は宮内省によって大師号の選考が行われるようになった[12]。宮内省では新たな内規は作成されなかったが、運用上は廃止された「大師号国師号賜与内規」を準用していた[12]。 日本国憲法施行後は、すでに大師号を贈られている者の50年忌ごとに追贈される大師号以外は授与されていない。真宗大谷派のように大師号使用をやめた教団もある。 名前画像大師号宗派生年没年宣下日備考
中国の大師号
智者大師智(538- 597)天台宗第三祖。天台大師とも。
慈恩大師基(632年 - 682年) 法相宗開祖
至相大師智儼 (602年 - 668年)中国華厳宗第二祖
嘉祥大師吉蔵(549年?623年)三論宗
日本の大師号
日本の大師一覧
最澄伝教大師天台宗766年?822年貞観8年(866年)7月14日宣下[13][14]日本天台宗開祖。